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読み放題対象「なぜ“良識”ある知識人たちは“あべしね”にとりつかれたのか」

さすがにそれはないんじゃない?

安倍晋三氏の非業の死をうけて多くの人たちが語り始めた。

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「なぜ彼らは“アベしね”など、『死すべきもの』として、執拗に安倍というキャラクターを毀損し続けたか」についてである。

その前近代的な怨念力はなになのか――そして私達が彼らの行為に「本質的なおぞましさ」を感じる理由とはなにか。

――あなたのモヤモヤをすっきり解明するニワカちゃんです。




彼らはまるで前近代的な呪術を信仰するように安倍晋三を「あべしね」の言霊で呪い殺そうとした。


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・・・そして「あべしね」は現実になった


安倍晋三の非業の死をうけて、日本共産党の志位委員長は、「言論を暴力で圧殺、許してはならぬ」といった。だが日本共産党の国政議員(吉良よし子氏)は重機で、安倍人形を踏み潰すパフォーマンスのデモに参加していた。

共産主義は、科学主義だったはずだが、まるで人形呪術 プレモダンに回帰してしまったような「象徴言論」である。そして、この安倍人形を轢殺する重機の前で、嬉しげな吉良よし子議員の姿――これ、どう見ても暴力装置を背景として勇気百倍状態の共産党員の図である。

こうしたブルドーザーデモの画像や動画は、今になって慌てて「趣旨ではなかった」「一部がやっただけ」など否定しまわっているが、これらの画像は、こっそり彼らの「蛮行」を隠し撮りされたのではなく、当時は、自らがSNS等で拡散した宣伝画像プロパガンダ なのだ。そもそもが「ファシズムを潰せ!怒りのブルドーザーデモ」とは、運営ビラに「このマシンはファシストを殺す!」と書いてある。その通り、安倍首相(当時)を悪魔化し、重機で轢殺したいほどの「憎悪扇動」が趣旨のデモであった。

同じく、共産党の国政議員の井上哲士氏は、「しんぞう(晋三)を一撃!いいぞ!」といっていた。ここで、人を殺すイメージに、普通に「いいぞ」という言葉がでてくるセンスに対して、私達が本能的に感じる気持ち悪さはなにか。

たぶん本人たちは全く意識していないのだろう。集団イジメのいわゆる「悪ノリ」のようですらある。


おどろおどろしい不吉な言論の衝撃性による圧力と「嫌がらせ」で、「信者」に向けてパフォーマンスする――どんどん前近代的な安倍に対する「死の呪い」に傾斜していったのが「彼ら」なのだ。

いじめのような安倍叩き

れいわ新選組の山本太郎代表も安倍晋三の死に接し、「本当にショッキングです」などといった。だが、ショッキングもなにも、彼は予行練習をしていた。国権の最高機関である国会で、わざわざ黒い喪服をきて、数珠をもち、そして安倍首相(当時)にむかって、仏式で焼香する仕草のパフォーマンスまでしたのだ。つまり普通に解釈して、本人に直接、「お前の死が現実になることを願う」という「呪い」の象徴言論である。

さて、貴方は、この幼稚なる攻撃性、お気づきだろうか。これは、ほとんど学校のイジメで「生きている」同級生の机の上に、花瓶を置き、花を飾る。やがて登校してきた同級生が、哀しい気持ちで花を片付ける。イジメているクラスメイトはくすくす笑う。そのイジメの風景そのものを国会議事堂に再現してしまった。さすがに安倍総理(当時)もこのときは、曰く言い難い表情をしていた。

「安倍は人間じゃない!叩き切ってやる」で、山口二郎法政大学教授(現職)は国家前デモで扇動すると大いに盛り上がった。このように「あべしね」イメージはカジュアルに使われたし、「言葉の暴力性」に「(良識あると自認する)(自分たちは正しい側にいると思う)インテリ層」たちは盛り上がった。そのほかも、「安倍は戦犯の子孫!(しんぶん赤旗)」「下痢するぞ(国会)」「安倍はトランプの犬(立憲民主党)」「大事な時に体を壊す癖がある(立憲民主党)」やら、罵ってきた声、このセンス、まるで「小学生のよう」である。ネットはもっと惨状を呈し、「安倍は種無し」「安倍ちゃんポンポコ痛くなるよ?」とか「でんでん」「安倍は刑務所にいれろ」と大騒ぎだった。

ひたすら、難病や生殖機能、そして出自や読み間違いまでもあげつらう。そして死や不幸を祈願する呪いの言葉にパフォーマンスで、相手を貶め、気持ち悪くさせること(言葉による傷害)を目指している。この「ノリ」が、「多様性」を標榜するサイド――「(自分たちは正しい側にいると考える)インテリ」のクラスターでどんどん拡大伝染していた。その姿はさながら「イジメに酔いしれる集団」である。普段はオサレな本を翻訳しているような「インテリ知識人」たちが、知能退行して「あべしね」の言霊を叫び、または「多様性」どころか、出自をあげつらい、難病をこきおろし、さらにはその「別個の人格であるはずの安倍昭恵夫人」まで執拗に叩いた。リベラリズムとはなんだったのか。

最近のSNSでは、この現象が多くの人々に「いくら殴ってもいい父親への反抗期」的に捉えられる。

だが誤解してはいけない。そんな「温かい」「ほほえましい」物語ではない。安倍の死後多くの人々が同時につぶやきはじめたような「もういくらでも殴れる安倍ちゃんはいないんだよ」というような癒やしの物語もそこにはない。「死体蹴り」は、ますます加速している。

確かに一面において、多くの「国民」は、安倍晋三というキャラクターに対して、「父親のような親しみを感じている」見方もある。――だが、問題は切り分ける必要がある。「あべしね」を叫んだ「彼ら」も同様に共有しているわけでは全然ない。

それはむしろ、後になってから「軽い気持ちでいっただけだ」「本当に死ぬなんて思いませんでした」のような「言い訳」を追認しているだけなのだ。

彼らが「安倍を殴っていた」(安倍憎悪)のは、彼が「壊れないもの・いつまでも包容してくれる父性の温かみを感じていた」とかそういうものではない。まさにイジメをする人間はイジメているうちにどんどん残虐性がエスカレートし、対象がどんどん傷ついて相手の「死」を本当に望みはじめる。「あべしね”は権力批判だからいいんだ。言論の自由だぞ。君たちそんなこともわからないの?」といっていた。この「言っても良い」が「やっても良い」となる世界を望み始める。

彼らは「正しい側の知識人リベラル 」と自己定義し、普段は「多様性が~」とかいいながら、安倍を目にした途端、たちまちにして、すべての「良識」やら「理性」やら、かなぐり捨てて狂ってしまう。これはなぜか。

もし彼らが主張するように「安倍」が「悪魔」のような存在であるとするなら、それはまさに「彼ら」(正しい側を自己認識する)インテリ層たちを、いともたやすく理性を喪失させ、「あべしね」で狂わすことだろう。

私達は、彼らが「あべしね」を願うことで一体なにを本当は願っていたか、彼ら自身も気づいていない「無意識」を知る必要がある。

この殺意の正体を知れば、あなたは「あ~!」と思うであろう。アレである。彼らが「あべしね」を叫ぶ時、真の矛先がある。

そう、私たちは、今こそ、この殺意の正体を理解するのだ。安倍晋三を取り戻すために。

スキ

この一連の「彼ら」(良識あると自己形成した)インテリ層たちが理性や「お高く澄ました態度」をかなぐりすてて、死の呪いへ狂奔バーサークモード させた正体とはなにか――モヤモヤを感じていた人は、以下よんでスッキリしてほしいと思う。

そもそも勘違いしてはいけない。

「彼ら」が今になって、「安倍の死」を「たいへん残念です」「民主主義の根幹を揺さぶる」などと澄ましているのは、――

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