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【ニワカ放談】価値紊乱の人~石原慎太郎のプロトコル~

石原慎太郎の訃報が流れると、彼を政治的に嫌う有名無名のアカウントたちが、「彼は差別主義者だった!大罪人だ!」「寂しい最後をとげたらしいぞ。まったく彼の人生にふさわしい」などと言い出して話題になった。

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(引用元→https://twitter.com/gonoi/status/1488487157404618753 削除済 →その顛末

なるほどイデオロギーというのは、社会性をかなぐりすてて、自然な人間感情の発露にも役立つようだ。「嫌いなやつが死んで嬉しい。ざまあみろ」という気持ちを解放するカラオケみたいなものだ。イデオロギーは自然な人間感情の発露に役立って、健康にいい!さあレッツ・イデオロギー!

・・・。

・・・。

・・・。

なんて思うわけないだろ!

スキ

だが、むしろそうした死後の噴出する「憎悪」の言葉こそが、石原慎太郎にとって最高の弔いの言葉だったのではなかろうか。

なぜって?

そもそも石原自身が「いくつで死ぬか知りませんが、まもなく死ぬんでしょうけどね。死ぬまでは、やっぱり言いたいこと言って、やりたいことやって。人から憎まれて死にたいと思います」(2014)といっている。

だから「慎太郎が死んだぜ!せいせいした!」といいたければ、いえばよい。「亡くなった時くらい素直に追悼してやれ」とか「日本人なら死者に鞭打つな」というが、そうした沈黙を強いられる集団規範の押し付けこそが、むしろ石原の死には全然ふさわしくないのではないか。そういう話をしてみたいと思う。


それこそ先日(2月5日)、西村賢太氏は石原慎太郎を「価値紊乱者の光栄」から説明している。こんな見事な追悼文を新聞にのせた3日後に、西村賢太氏自身もタクシーの中で急死してしまった。

石原氏の政治家としての面には 毫も興味を持てなかった。しかし六十を過ぎても七十を過ぎても、氏の作や政治発言に、かの『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している点に、私としては小説家としての氏への敬意も変ずることはなかった。
胸中の人、石原慎太郎氏を悼む…西村賢太

西村賢太氏の石原慎太郎への「敬意」がなにかといえば「価値紊乱者」なのである。西村氏は、石原慎太郎の政治発言の中にも、やはり小説家と同じ「価値紊乱者」を読み取る。世評のみに頼り石原の作品を全く読まないまま論じようとする売文業もはびこる中、作品を踏まえた西村賢太氏の評価は実に見事だった。

そうなのだ。死ぬ最後の瞬間まで石原慎太郎は「価値紊乱者」であった。

しかしこの「氏の作や政治発言に、かの『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している」という読み方は、当たり前のようでいて、実は決して「当たり前」ではない。あくまで西村賢太氏の石原慎太郎への深い理解に支えられているものだ。

脳幹マッチョイズム

たとえば貴方は思うだろう。

別に「リベラル」だけが、石原慎太郎のアンチというわけではないのだ。政治家としての石原は「紊乱」どころか「公への奉仕」を叫ぶ人間ではないか。

都知事時代の石原は、靖国参拝を咎めるような質問をする記者に「支那が怒るからかね?」と問い返したり、東日本大震災での震災がれき受け入れで喝采を浴びる一方、そもそも「ガチ保守」として非実在青少年規制で悪名高き人だった(非実在だけではなく、風俗街の取り締まりもした)。その範囲攻撃はもちろん「ネトウヨ」といわれる層にもドストライクで、ぶち当たった。

現代のリベラルは明らかに「公共の利益」のような「全体主義的」な概念を振り回して、表現を規制したり、自由を抑圧してまわる。そして「よくない表現は社会を悪くするので無くせ!」と叫ぶ。

しかし、本来はこうした「公共の利益」を持ち出しては、人権や言論の自由を制限しようとするのは「保守」の役割だったのだ。そんな石原慎太郎の「ガチ保守」としての側面は、リベラルとおなじく、オタクコンテツを憎むもので、「おまえら二次元なんかと恋をするな。軟弱だぞ。自衛隊入れよ。鍛えろよ。現実の女性とセックスして、どんどん産めよ増えよ。それがお国のためだぞ」的なものなのだった。

たとえば石原慎太郎はこんなことをいっている。

若者には、自衛隊、警察、消防、青年海外協力隊といった『人のために肉体を酷使する』職業につかせて1年間拘束すればいい。公に奉仕しながら心身を緊張させることで、脳幹という感情を司る部分が鍛えられる
(『SAPIO』2010年10/13/20)

ほえええ?

「脳幹」???

なんらこえあ、「科学が風評に負けるのは国辱だ」と同じ人の発言なのか。

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どこまで本気でいっていたのかわからないレベルの「ガチ保守」マッチョイズムである。これをきくだけで現在、Twitter世界の「オタク」とか「ネトウヨ」とかいわれている層は、こうした「ガチ保守」とは全然違う。むしろ本来の「リベラル」に近いとわかるだろう。


ちなみに「脳幹を鍛える」で検索すると怪しげ(?)な本ばかりヒットする。

しかし、これもまた石原慎太郎なのである。いかにも石原慎太郎らしい。石原慎太郎は、政治家で文学者のアンドレ・マルローを尊敬していたが、「ガチ保守」政治家としての石原慎太郎、そして「価値紊乱」文学者としての石原慎太郎が、分裂しながら、共存している。私がするのは、これらは決して矛盾しないという話だ。むしろ彼の『太陽の季節』を売り出した文学的なマーケティングセンスとは、都知事の売り方とも共通している。

だが、当時から石原慎太郎は、いわれてきた。たとえばこんな感じだ。

「太陽族とかいって、若者の象徴としてもてはやされて文壇デビューしたくせに、老人になると、若者の表現は取り締まるんですね」

「あんなインモラル小説を書いているくせに。お前が取り締まり対象なんだよなあ」

「障子をペニスでぶち破る小説のくせに」

「精神病院から抜け出てきた女の子を輪姦して殺す小説かいているじゃん」

特に最後の『完全な遊戯』は悪名高い。かなり多くのひとが「胸が悪くなる」などといっている。

この2つの石原慎太郎は、西村賢太氏の読み通り、実は無矛盾に存在していた。これがわからず石原を単なる「個より全体を優先するガチ保守」として語るなど論外である。「価値紊乱者」としての文学者石原、そして「公への奉仕」を叫ぶ「ガチ保守」政治家石原は決して、相反するものではないのだ。つながっている。

石原慎太郎の共通プロトコルとは何なのか――

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優しいネトウヨのための嬉遊曲。 おもしろくてためになる。よむといいことがある。

和菓子を買います。