10/4_金木犀に寄る

 気がついたら10月になっていた。10月がきて、11月がきて、12月がきて1年が終わるというのを、27年やっているにも関わらずまだ毎日が続くと思っている。「人は死ぬ」という事実をある程度携帯しておきたいが、すぐに忘れてしまうのは人が希望を元に過ごす生き物だからだろうと思う。
この「希望」というのが結構厄介で、俺の毎日を苦しんでいるのもこの希望があるからだと思っている。希望というか、期待にも言い換えられるけど。何でもかんでも期待してしまうのが俺の悪い癖だ。
 自分にも他人にも世の中にも運にも命にも根拠なく期待している。
そしてそれが壊れることを想像して消極的になったり卑屈になったりを繰り返して磨耗している。
実に不毛で実に滑稽だが、それらは自然発生してしまうものなのでコントロールができない。その期待を操縦できることが、自分に対して適切な期待をすることが、今の俺の目標だ。(できればなににも期待しないほうが、心が揺れなくて楽だけど、その退屈さを受け入れがたいから認めず期待ばかりしている辺り、まだ形だけが大人の人間のままの所以と言える。
Tumblrに書くような詩的な(私的な)文章を書いてしまった。恥ずかしい。

 秋口になって金木犀が咲き始めるとこういったアンニュイなことを言い始める日本人が多いのは、古今和歌集の時代からわかっていることだけども流れに逆らうことができない。
きのこ帝国の歌を聴きながらTwitterに「涼しくなってきたから散歩をしているけど、窓の灯りの分だけ物語があるんだなと気づいてしまった」とか全員が書いてしまうのは、文化であり季節病だからしょうがないことなのだ。
誰も悪くない。強いていうなら全員悪い。
春に露出狂が増える理論と同じだ。あれも全員悪いし最悪だし。

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