14歳で出会ったエヴァとの別れ【シンエヴァネタバレあり】


僕とエヴァの出会いは14歳の時だったと思う。ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qが公開される直前の金曜ロードショーで初めて「エヴァ」というアニメに触れた。ちょうど公開日の前日で、:破を放送していた。セントラルドグマに射出されて行く弐号機とミサトさんがすれ違う辺りから見始めた気がする。正直、度肝を抜かれた。完全な初見だったので何も分かってないのだが、歴代ガンダムシリーズのオタクだった僕にとって:破クライマックスの戦闘シーンは衝撃だった。数日後、そのまま当時の友人たちと:Qを観に行くことになる。正直なにも意味がわからなかった。:序も未履修なのだから当然である。そこで改めてTV版から観ることを決意し全話、旧劇場版、新劇場版と観ていくことになる。


思春期真っ只中の中学生である。当然のようにどハマりし、ネットの考察や用語解説を読み漁った。当時は「エヴァ」のテーマについていまいち理解していなかった部分もあったのかもしれない。ただシンジの健気さ、綾波の可愛らしさ、アスカの実直さ、そして何よりカヲル君のカッコよさに痺れていた。

さて、そういうわけで僕がエヴァに触れてから9年、その中で僕も痛い中学生であったが気づいたら大人にカテゴライズされていた。
そんな自分の世代にもシンエヴァは刺さったのではないだろうか。
9年はあっという間だ。出会いと別れ、住む場所も大きく変わった。その中で、エヴァンゲリオンという作品は形を変え僕の中に残り続けていた。

旧劇場版のテーマを理解できたのは大学生になったくらいかもしれない。ヒトは1人では生きていけないし、オタクも他者を許容する必要がある。だけど、自分はそう上手くは立ち回れなかった。


:Qでのシンジは自分のしたことに関しての贖罪を果たそうとする。しかしそれは真に自分で認め行ったものではなく、カヲルくんという自分に優しい存在が示してくれたものを言われた通りにするだけだ。結果、彼はカヲル君の命も(今回は間接的にだが)奪い、絶望する。


自分のした事にオトシマエを付けず、流されるまま、自分自身の願いのためにと言い聞かせて来た人間は小さいコミュニティの中で身を寄せあい、承認してもらう場所の中で生き続ける、そんな生活がここ数年だ。

シンエヴァはそこに刺さったのかもしれない。今回「責任」「オトシマエ」「贖罪」という言葉が頻繁に聞かれた。 いくら被害者であって辛い目にあったとしても自分の行動だったのだ。だからこそ僕達は許容してくれる他者のもと、奇跡のない現実で過去の自分と向き合いながら生きていくんだ。僕は今回のエヴァのメインテーマをそうやって受け取りました。

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