自己満足の旅路

twitterから少し離れる試みを兼ねて、noteの方で毎日一記事を書いてみようと思う。
きっかけは昨日、自分が触れなくてもいい話題に触れたことによる。
自分でも何が言いたかったのか伝えたかったのかが不明瞭なまま、ただぼんやりとした感情でもない塊を吐露してしまった。
これは些細な、しかし、確実に重く受け止めるべき過剰反応で、僕は自分の感情がどこへ向かっているのかを今一度、整理する必要があると悟った。
勿論、それは終始終生、僕自身にまつわり、僕自身を越える話ではない。だから、それを誰かに伝えようとか、そういう気持ちは一切ない。

万物は流転する。

僕は人がどうやって生きようが、死のうが、迷惑をかけようが、まぁそれはソイツの人生だと思っている。
人と人は交わっているようで交わっておらず、究極的な部分で説得は不可能だ。
突き放した言い方をすれば自分が他人をどうこう出来るとは思わないし、他人に自分をどうこう出来るとも思わない。
だからといって何をしたっていいとか、そういうわけじゃないのだが、人間は結局、それっぽいルールの中でそれっぽいことをして、それっぽく生きていくことになる。
僕だってそうだ。振り返ってみれば色々あったが、今の僕は生活に窮しているわけじゃない。
楽な人生とは思わないが、人並み一歩手前ぐらいにはなっている。そして、現状を格別に気に入っているわけではないが、維持が可能なことぐらいは想像できてしまう。
このまま親と別れ、それなりにお金を稼いで、安いアパートを借りて、苦難をのらりくらり交わして、致命的な何かにぶつかって死ぬまでは。
この人生を続けられることは何となく分かってしまっている。
それも生き方の一つであるし、価値や評価など付けられないだろう。
しかし、僕は自分の終着点がそこで良いのか?と先日の立ち振る舞いから思い至った。
人生はつまらなくても良いが、僕は考えて生きたい。
というより、考えることが僕にとって生きることに等しい。
前述の生き方はとても考えている人間の生き方じゃあない。
誰かの余剰スペースに乗っかって今日が過ぎ去るのを待っている生活を、考えた人間の人生だと僕は言いたくない。
それは本人の怠慢でしかないからだ。
自分がそうやって終わっていくことを実感した時、僕はやはり何かをしなければならないと思い至る。

話は変わるが、僕は頭で計画を立ててから、それを実行に移すことができないタイプだ。
理由は分かっている。頭で計画を組み立てている内に満足してしまい、別に実行しなくても満たされてしまうから。
逆に思い立って何の思慮も巡らせていない内に行動をすると、上手くいくことが多い。
それは内にあるエネルギーを一切漏らさず、そのまま行動力に変換出来ているからだと、僕は考えた。

そして、この終わっていく現状の一因として、頭の中だけでエネルギーを空転させているか、何かを生み出す必要のない場所、つまりはtwitterへエネルギーを漏出させていると判断した。
重ねて言うが、それは別に悪いことではない。そういう人生もある。
しかし、自分は考えている人です、と言っているヤツがtwitterで一生ジョークを言って満足しているのはヤバい。
そもそもtwitterはネットの場末みたいなもので、あそこを主軸に生活を回すのは間違っている。日記帳とか、チラシの裏として使うのが正しい。
はっきり言うと僕はtwittewrに依存しすぎていたな、と感じるし、それ故に他人との距離感を誤ってしまったと感じることもある。
陳腐な表現ではあるが自分自身と向き合い、考える人だと証明するならば一つずつ石を積み上げていくしかないだろう。
noteだってチラシの裏だという意見もあると思う。
だが、エネルギーを浪費するのではなく見定めた何かを記す場所として、また考える人生を送るための筋力を培うためにこれをやっていきたいと思う。
どうせ日記をつけるなら、価値のある日記を付けたい。

明日はO・ヘンリーの千ドルについて記事を書く。もし奇特な人がいれば千ドルで検索すれば訳文が読めるので、読んで損はさせない。損をしたらそれは僕ではなくO・ヘンリーのせいである。


それはそれとして、僕は三日坊主を越えた三日大統領なので明日にもこれを辞めている可能性がある。
もしそうなったら、僕は天に向かって「パンタ・レイ!」と叫ぶことで事なきを得るつもりだ。

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