バロン観ました

※この記事は1989年に制作された「バロン」という映画の感想&レビューであり、ネタバレを多分に含みます。未視聴で視聴予定のある方は読む前にバロンを視聴されることをお勧めします。

きっかけは一昨年に知り合いである十戸さんから「nitoroさんバロンと花咲ける騎士道見てください」と言われたことです。
十戸さんは僕よりも芸術を骨肉とされている方なので「十戸さんがいうなら見る価値はあるな」と勧められた段階で認識していたのですが
姓はデブ、字名はショウである生まれついての出不精の僕は「いつか見るだろう」の姿勢で当然の帰結として一年以上見ませんでした。

しかし、人に勧められた作品を何時までも観なかったり、人とした約束をいつまでも果たさないと人間は信用を失い、そのうち誰からも作品を勧められなくなったり、約束をしてもらえなくなったりします。この生き方は最終的に友人を失くします。オススメ出来ません。
なので、僕はいい加減に作品を見なければならないと思い、勧められて二年近く経った今日まず「花咲ける騎士道」を観ようとDVDを買いました。偉いぞ。

DVDが届きました。よし、観よう!
DVDをパソコンに入れます。
DVDドライブが壊れていることを思い出します。
次に外付けのDVDドライブを買っていたのを思い出します。
探します。
ありませんでした。
僕の家にDVDを再生できるのは埃被ったPS3しかないことに気付きます。
そして、今度はPS3を繋げられるテレビが無いことに気付きます。
アマゾンで外付けのDVDドライブを注文しました。

「バロン」をアマプラでレンタルして観ることになりました。

前振りが長くなりましたが、これ以降がバロンの感想になります。そして、少しでもバロンに興味があれば読まずにアマプラ登録してレンタルして観た方がいいです。
まずはっきりと言いますが、「バロン」は人を選びはするものの面白い作品であるからです。

舞台は18世紀後半、ドイツとトルコが戦争をしていて、傷ついたトルコの町で人々が惨禍の中で何とか生活している様子から始まります。
そんな中で演劇の一座があのほら吹き男爵「バロン」の演劇を民と町を仕切っている提督の前で行うのですが、そこに突如、「自分は本物のバロンである」と一見耄碌してそうな老人が闖入してきます。
老人が本物の剣を振り回して暴れるので劇は中断、それでもなお老人は自らがバロンである証拠と言わんばかりに冒険譚を語りますが、そこにトルコ軍の攻撃が始まり、一気に現実へと引き戻されます。

「バロン」は色濃く劇=空想、戦争=現実という事が作中で表現されています。実際には劇と戦争を通し、空想を娯楽、あるいは楽しいことと置き換え、現実を苦痛、辛いものとして表現されています。

面白いことに主人公であるサリーは最初から最後まで本物の戦争シーンを見ずにストーリーが進みます。サリーは間違いなく戦争で辛い思いをし、苦しめられているのですが戦争そのものが現実としてサリーの前に立ちはだかってくることはないのです。これにはこの作品が「子供に戦争(過度につらい現実)を見せない」というポリシーがあると感じました。そして、物語の本筋は常にサリーとバロンを中心に空想の世界で描かれていきます。
戦争やそういった類の現実は、見るものが子供であろうと大人であろうと否応なく世界が「そういうものである」と納得させてしまうエネルギーがあります。これは悲劇であり、避けねばならない事実です。
対して空想とは「そんなわけがない」と分かっていても我々は享受する事が出来る余地として存在します。

バロンとは空想で、スーパーヒーローで主人公なわけです。ただ、バロンは万能というわけではなく、ちょくちょく寄り道に逸れたり、思惑を外したりしていますが、そんな時は子供のサリーが助けになっています。ヒーローという存在は子供がいなくては成立しないようにバロンもまたサリーがいなければ成立しません。

そして、作中で空想の主たるバロンをつけ狙う影が一つ。それは死神の姿をし、町の提督の姿をし、バロンの前に立ちはだかります。
それはつまり「理性」です。理性は空想を否定します。理性は「そんなわけがない」と知っているからです。
人は死ぬし、気球で月には行けないし、マントルを貫通して地球の反対側に出ることもありません。理性はそれを可能にするバロンなど存在してはならないと言っています。だって、ありえないのだから。

理性は最終的にバロンを殺します。しかし、バロンが死んでも空想そのものは死にません。そして、空想を信じるものがいればバロンも同じです。空想は現実がどれだけ非情で過酷であろうと存在し続けています。これは時に無情でもあり、救済でもあります。
人間は往々にして理性と空想の狭間で生きている、そう思うのはこの「バロン」が極めて理性的かつ空想的に描かれていたからでしょう。作中の描写の多くはどちらかに偏重していては無理でしょうし、現実も空想のシーンでも「どこまでが本当か」という明言を避けています。
そして理性(現実)と空想(劇)の両者の面を見せられた時に、我々がバロンを目の前にしたら、どうするべきか、その命題に僕は行き当たりました。

理性としてはバロンを許すわけにはいきません。何でも助けてくれるスーパーヒーローを手放しで喜べる時期を残念ながら僕は過ぎてしまいましたし、空想だけで生きていくと自分という存在が破綻しがちなのは否定できません。
しかし、空想を一切排する訳にもいきません。バロンが目の前に出てきて、殺すなんて選択肢は選びたくないですし、むしろ喜びたいと思います。

ならば、バロンを自分で作ってみるのがいいかもしれません。自分が作ったバロンであればコントロールも出来ますし、人から「困るよ」と言われたらチューニングも可能です。現実的に沿って毎日あくせく暮らしているバロンも場合によってはありかもしれません。
空想でありながら現実に居座り続けるバロンは「物語」へと変わっていきます。それは誰かの救いかもしれませんし、傷つけることもあるでしょう。

あと面白かったのはこの「バロン」という作品は明らかに後世に影響を与えていて、ワンピースの音越えヴァン・オーガーはバロンを見た後では「どうみてもアドルファスだ!!」となりますし、バロンが海中から自分を引っ張り上げるシーンはポピーザぱフォーマーでパピーがやってるのを見たし、月の王様と女王様はmoonで見たし、というか最後のシーンはあれもうまんまmoonだし……一回みただけの自分ですら「見たことある!!」と思うシーンがこれだけ挙げられるので見る人によってはめちゃくちゃ気付きがあるのではないでしょうか。

最後に、身も蓋もない言い方をすれば「バロン」とは空想が現実を打ち砕く話です。そしてそこには子供がいる、子供とは言い換えれば「未来」であり「余地」であります。エンターテイメントとは「それだ」と言わんばかりの力強さが「バロン」にはありました。

狭い現実から扉の向こうへと出た時に物語は存在し、それは自分だけの「バロン」へと変わるのだと思います。

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