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大きな政府と小さな政府(3)

前回の続きです。

小さな政府について

日本では小さな政府論者は多い。

多くの野党もおおよそが小さな政府論に立脚していることが多い。国民も、たくさんの税金を納めて国に再分配してもらうよりも、個人が自分の収入や財産を用いて自力救済を目指す方が好みである様子である。

小さな政府論ではとにかく政府支出を嫌う。政府の業務を仕分けし、不要な業務は廃止である。外交政策、安全保障のような政府でないとできない根本的な業務以外はできるだけ削る。公務員も最小限に減らす訳である。公共事業も最小限に減らすし社会福祉もどんどん削る。そうすれば政府が身軽になって、納税する必要もなくなってくる。無税とまではゆかないが、税額は十分に減らせるということになる。

公共セクターのデジタル化と業務のスリム化

公共セクターで重要になることは、政府の効率的な運営になるだろうから、例えば、国民の管理もオンラインにして、窓口業務の負担をなくす、verification もコンピュータでやることで人の手を介さないようにする。もちろんその過程で個人情報の漏洩が起こるかもしれないが、むしろそのリスクはやむを得ないものとして許容し、どこまでの個人情報の漏洩までが許されるかについてをリスクコントロールするということになる。もちろん、個人情報ファイルは国、都道府県、市町村で共通とすることで使い回しを良くする訳である。こうすれば情報の保守点検に必要な人員も削減できる訳である。その他もオンライン化、オートメーション化を極限まで進めると多くの場所で一元管理が可能になるので、人員をもっと減らすことができる。もう、地方自治体の一部業務はコンビニで行うことができるので、その機能がもっと拡張するということになるだろう。定型業務はもう市役所に行かなくても自宅やコンビニでできるようにする訳である。そうすれば定型の窓口業務が不要になる。もっとも、定型で処理できない窓口業務が残るので窓口にはむしろ強者(ツワモノ)を配置する必要があるので、単純な小さな政府論者の目論見通りにはゆかないだろうと思う。

ベーシック・インカムなど

日本にもベーシック・インカム論者が増えてきて、時々「ベーシック・インカム、如何ですか?」と言われることがある。これも良い面と悪い面があることは認識する必要があるだろう。

良い面としては一定の所得再配分効果があることがあげられる。高所得者の税金が低所得者に配分されることは社会の貧富の差を減らす一助になるであろう。

悪い面としては、ベーシック・インカム以外のセーフティ・ネットがないことである。例えば、国民皆保険もベーシック・インカムに入ってしまうとなれば、医療に掛かる必要があっても自費診療ということになる。若者は3割負担なので、今の診察料が3倍になる程度であろうが、高齢者はもし、2割負担であれば5倍、1割負担であれば10倍の窓口負担になってしまうのではないか。もちろん、お金のある人は民間保険に入って医療費負担を軽減できるかもしれないが、お金のない人はむしろ受診抑制に傾くのではないかと思う。そういうことは恐ろしくてベーシック・インカム論者とは議論できそうにない。「命の選別をするな!」というサヨク様も、「小さな政府論」の野党支持者であれば、患者が受診抑制した結果、命を落としたならば「お金がなければ仕方ないね」の一言で済ませてしまいそうで不安ではある。

貧富の差

小さな政府を目指すならば、新自由主義と親和性が良くなるので、勝ち組、負け組の差が激しくなることはやむを得ないであろう。例えば東大を出て一流企業に正社員として就職した人がぐんぐん昇進すると給料もそれに伴ってガンガン上がってゆくわけである。一方で就職に失敗した負け組はフリーターとして短期のアルバイトをあちこち掛け持ちしても時給が上がることもなく貧困層として固定化してゆかざるを得ない。ベーシック・インカムがあったとしてもそれしか援助がなければ結婚なんて望むべくもなく、孤独な生涯を終えるしかないわけである。まあ、女性で若く、ルッキズムを利用できるなら、玉の輿ワンチャン狙いでのし上がる可能性もあるかもしれないが、男なら吉本の芸人になって売れるとか宝くじを当てるくらいしか階級をのし上がる可能性はないかもしれない。

米国では「アメリカン・ドリーム」という思想を貧困層に与えて、(もちろん宝くじに当たるほど稀なことだろうが)貧困層が富裕層に成り上がることを奨励している。そのため、起業には積極的だし、失敗したところでそれを責めることは少ない。失敗しても何度も起き上がって挑戦を続ける人を評価する風土がある。もちろん、再挑戦を受け入れる制度設計になっているわけである。転職についても日本ではまだまだ否定的なニュアンスが強いが、米国では「転石苔むさず」を褒め言葉としている。

今はそういう話題をすることも少ないが、以前、「小さい政府を目指すならば起業をどんどん奨励して勝ち組を増やす政策をとらなきゃどうしようもないじゃないの」という意見をツイッターで書いた時には「いやいや起業の成功率は非常に低いんですよ。やっても失敗することの方が多いのです。」とか、「サラリーマンをやっていれば毎月決まった給料が入るのですよ。そのありがたさが分からないならばあなたはヒヨッコです」という否定的な意見をもらったわけである。

「いや、寄らば大樹の陰、大企業に入って終身雇用で給料をもらい続けるのが勝ち組だ」というのであれば別に護送船団方式で大企業を国が援護してゆけばよかったじゃないの。目指すはサラリーマン社長、うまくゆかなければ子会社の社長あたりを狙うという夢がサラリーマンの勝ち組の夢ということにすればよかった。そうであればフリーターどもやデイトレーダーどもはある意味ヤクザもの扱いであろう。そりゃソロスやバフェットみたいな世界的な投資家なら別だろうけれど。

小さな政府、新自由主義であれば吹けば飛ぶようなフリーターでも起業して大社長になれるし、食うや食わずのデイトレーダーでも投資に成功して世界三大投資家といわれるまでに上り詰められるというドリームを与えないと単なる閉塞した社会になるよ。そういう社会であれば自分たちの人生に絶望したフリーターやデイトレーダー、つまり負け組たちが自暴自棄になって暴力に走るかもしれない。そういう時にはサヨク思想が役に立ってしまう。日本でもかつて学生たちが安保反対と叫びまくって暴れたことがある。彼らのよって立った思想は極左思想である。そういう人たちの暴力の結果は単純に社会の崩壊である。

極左思想の行き着く先はプロレタリアート独裁であろう。これには暴力と独裁が内包され、さらには腐敗してゆく官僚主義もくっついてくるわけである。例えばカンボジアのポルポトたちも共産主義の理想に浮かれながら知識人階級を虐殺し、独裁政権を樹立し、最終的には腐敗していったということであろう。

家父長制の再評価

なんだかフリーターやデイトレーダーをいじめているような気分になってきたが、閉塞した社会で負け組を自暴自棄にさせてはいけないのである。米国のように「ドリーム」を与えないならば、負け組たちをとにもかくにも食わせよう、食わせておけば自暴自棄にはならないだろうということになる。そうなれば家父長制も一つの方法になりえる。

家父長制では家父長が財産と権限を持つ。その代わり、一家の未熟者を保護する責務も持つ。負け組になりそうな奴は最初から世間様には顔見せさせず部屋住として捨て扶持を当てがっておけばよいわけである。もし、部屋住のものが時流に乗って独り立ちできるようであればよし。能力や運がなくて独り立ちできない半端者は飼い殺しにして世間様にご迷惑をおかけしないという方が日本人の好みなのではないかと思うのである。

この状況はいわゆる「おじろくおばさ」状態なのかもしれないけれど。

「おじろくおばさ」についての記事である。人権を考えるならこういう制度は否定されるべきなのであるが、左派ならば「ネトウヨに人権なんて必要ないでしょう」と素面で言う人も稀ではないと思うので、彼らの関心領域以外の人間であれば非人間的扱いをしても構わないと言いそうなのである。

まあ、小さい政府・新自由主義を唱える人なら「は?私、社長、CEO、勝ち組よ?節税のために寄付もしまくり。なんか文句ある?負け組は単に貧乏になる自由を行使しているだけでしょ。」なんて言い出しそうで、こっちは「ぐはあっ!」て血を吐いて倒れなければならないということかもしれない。



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