ちょっとなあ

ちょっと暗澹たる気分ではある。

尊厳死の議論の前提は独立した個人の存在である。

そりゃ日本はかつてはムラ社会であったわけで、それなりの同調圧力もあったであろう。全体主義的傾向をよしという人もそれなりにいることはわかる。

だからといって、それを理由に個人の独立を否定するというのはどういうことなのだろうか。確かに左派やリベラルを名乗る人に全体主義的傾向が強い人も多いように思う。

で、左派やリベラルは全体主義、個人が尊重されない社会を前提にしているというわけだね。それなら家制度を復活させて、財産は長男が全部相続して代わりに長男の嫁が先代の老人を介護する古き良き日本を目指せばいいじゃないか。飢饉が続けば年寄りから姥捨山に運んでゆけばいい。

女の子が生まれたら濡れタオルを被せて間引きするわけだ。

そういう世界を前提に「ただひたすら老人の命を守りましょう。病人はひたすら生かせ続けましょう。」ということであれば、バランスとして「若者は老人や病人に無限の奉仕をしなさい、お前らの夢や希望は不要なのです。ただ老人や病人を生かせ続けることだけが仕事です」ということになって、若者の個の尊重は無視されるだけではないか。

そりゃ、サヨクリベラル様は澄んだ目で「若者にとって老人や病人の介護は幸せなのです。彼らは進んで自分の人生を老人や病人の介護に捧げているのです。彼らは結婚して自分の子供を育てるよりも老人や病人の介護をしたいのです。皆さん、それで間違いありませんね。違うという人は懲罰房行きです。」というだろう。彼らにしてみれば、彼らの理想と異なることを若者がいうことは考えられないのである。仮にそういう若者がいれば「不良」、「落ちこぼれ」などとレッテルを貼って散々叩くのではないか。

全体主義を推し進めながら個人主義を標榜するのは詐欺である。

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