飛田百番

飛田百番って私らが卒業する時に遊郭の建物を料理屋に改装したということで使った覚えがある。まだやっているんだねえ、もう20年以上も前の話である。

そりゃもう今では多くの場所が再開発されて白くて綺麗なマンションになっているけれど、確か、飛田には「嘆きの壁」なんてものがあって、あの場所って窪地だから遊女が逃げようとしても壁を登れずに捕まって連れ戻されてしまうなんてことがあったようだよ。

もう、再開発されて綺麗になってしまったけれど、私が大学に行っていた平成の初期頃はまだ性病検査の診療所が残っていたと思う。多分昔は遊女たちが性病検査なんかで訪れていたのではないか。

もう今では表面は真っ白く塗りつぶされてしまって綺麗なものしか残されていないようだけれど、それで全てが綺麗になったと考えるのは単純すぎるのではないか。乙女チックな人がそう考えたがるのはわからないでもないが、それは現実からの逃避、欺瞞にすぎない。

無論、私はファンタジーマニアなので逃避を否定するものではないけれども、否定したからと言って現実は消えないわけである。消えない現実を消えたと誤魔化すのは欺瞞である。

頭が乙女チックな人は「ジェンダーをなくせばいい」なんて能天気なことを言うが、ジェンダーがなくなっても体の差異すなわちセックスは残るのである。それを認めないのは欺瞞である。

逃避したい人は逃避すればいいけれど、そこに残っている現実をきちんと見つめることも重要である。もちろん、それは大人の目に映るものと子どもの目に映るものでも異なっていて良いわけである。わざわざ全て一律にしてみたくないものまでは見る必要はない。

子どもたちは大人への階段を登る中で準備ができれば新しい扉を開けば良いだけのことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?