独居老人の未来

まあ、もう人生の先が見えてそろそろ棺桶に片足を突っ込もうという爺さん婆さんが例えば自由主義者と自称しながら「死ぬ権利などない!生きる義務だ」などとパターナリズム全開で主張してさながら全体主義者の集会の様相を呈していたのは正に家父長制の崩壊が原因であろう。

今の日本では何とか相続の概念は残っているが、横の関係ばかりで縦のラインは否定されている。家族と言っても親子関係だけで祖父母と孫は養子縁組でもしない限り「別の家族」なのである。

平成の前半くらいまではまではそれでも明治憲法の名残があったので祖父母は孫を自分たちの後継者とみなす感覚は残っていた。孫が病気で入院するときには、母が仕事で看病できなくても、祖父母が代わりに看病することも結構多かったのである。

最近はもう入院患者を主に見る仕事ではないが、祖父母が孫の看病をする風習はもうずいぶん廃れて行っているのではないか。中華では、まだ祖母が孫の育児を(どちらかというとメインで)みるという風習は残っているような気がする。中華出身の妊婦さんが出産すると、おばあちゃん(母の母)がはるばる中華からやってきて、出産した母はむしろさっさと仕事に復帰させて、子供の面倒は祖母が見るという事例は例外的ではなかった。

平成後半には中華から来日して仕事をする女性も増えてきたが、それとともに、出産した孫の面倒を見る祖母の姿を見ることも増えていったのである。そして、2〜3歳頃には子供を中華に連れて帰りますが飛行機に乗せても大丈夫でしょうか、という質問がよく飛んできたのである。結構数年ばかり中華で暮らして小学校の時分になるといつの間にか日本に戻ってきていて風邪薬をもらいにきていたりして、日本に帰ってきていることに気づくこともあった。

日本では全く逆で、お母さんに「お子さん、肺炎ですけれど入院しますか?」と言ったときに、「私も仕事があるので…」と言って祖母に看病してくれるように母が連絡したが、祖母も仕事があるので孫の看病など無理、とすげなく断られた事例も増えていったように思う。その場合、やむなく外来治療を続けるか、完全看護で親の付き添う必要のない病院への転院を余儀なくされるしかなかったのである。時には母の非常な決意で「お父さんを休ませました!」と言って入院に至る事例もあったけれども。

左派リベラルやフェミニズムの闘士、もしくはリバタリアンの人なら「孫如きに縛られることなく高齢者が自分の自由を満喫できることは素晴らしいことだ」と称賛するかも知れない。けれども育児負担の重みは少子化を推進するに十分な材料にもなっているということも言えるわけである。

左派リベラルたちは自分たちの考えしか見えないので別視点を理解できないのは仕方のないことなのかも知れない。リバタリアンなら「別にいいじゃない、子供などいなくても。それも自由でしょう。バカなネトウヨどものいう家制度など不要で、みんな子育ての負担などせずに楽しく生きていけばいいんですよ」というかも知れない。

まあ、脳天気なのは仕方がないのだが、そういう方針であれば、本気で介護ロボットでも開発しておかないと、自分たちが年老いたときには介護してくれる若者が存在しないという未来に直面するかも知れないのである。自分には特権的に介護してくれる人がいるはずだという妄想は捨てて、独居老人として乏しい援助で寂しく生きてゆく未来を覚悟しなければならない。

そういう人たちが「こんな目に遭うのはバカなネトウヨどものせいだ。あいつらがゴキブリのくせに人間みたいな顔で生きているのが悪いんだ」と喚き散らして逆恨みしても、「仕方ないよね」って生暖かく見守ることしかできないのである。


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