付き添い入院は子どもの権利

これはなあ。
負担の大きいお母さんの気持ちはわかるけれど、お母さんの代わりを看護師や保育士が簡単に代われるわけではないのである。

いや、フェミニストの皆さんは「お母さんなど居なくても保育士で十分!」って言いたがるけれど、それはまさに親の都合でしかない。

親にしてみれば優しい看護師さんや保育士さんでしょ?なんの文句があるの?ということになるかもしれないが、子供にしてみれば見知らぬお姉さんである。しかも、お母さんは消えてしまい、いつまた会えるかわからないのである。子供の不安、親から見捨てられてしまった気持ちはいかばかりか。

親から見捨てられた子は愛着障害になってしまうわけである。フェミニストの皆さんがいうように都合よく見知らぬお姉さんに懐くわけにはいかない。お姉さんの方だって、本当にその子の親代わりができるの?そんな覚悟があるの?という話になる。

8時間労働で定時上がりのお母さんなんてないわけで、そんな欺瞞には子供はすぐに気がつくわけである。子供は都合よく大人の嘘になど騙されない。というか騙されるふりをしているだけである。

もちろん、看護師さんや保育士さんの中にも子供がガチで懐いて愛着を形成しているような人もいないわけではない。看護師さんでも小児医療を志す人は少なくないし、そういう人は子供の本当に上手に接する人はいる。子供もそういう人にはよく懐いている。

赤トンボの歌詞で十五で嫁に行ったねえやもそういう人だったのかもしれない。昔の日本の中流以上の家庭ではそもそも母親が育児などしなかったわけで、子供たちは実際に育児してくれた乳母や女中さんに愛着形成していた可能性は十分にあるわけである。

赤トンボで「負われて見たのはいつの日か」と歌っているのは赤トンボの主人公が愛着形成をしていたねえやが嫁に行くために女中をやめていなくなってしまったわけで、その喪失が歌の背景を生み出し、夏の終わった秋という喪失と重なり合って奥行きを生み出しているのかもしれない。おそらく彼はそこに救いを求めたのかもしれない。それが竿の先に止まっている赤トンボである。

恐らく、戦前の封建的な家である。ねえやがいなくなったとしても彼にはまだ守ってくれるものがあったということであろう。だからこそ彼は赤トンボを見ながら生きることができたわけである。

もしそれがなければ「母をたずねて三千里」である。ひたすら愛着先を求めてどこまでも旅してゆかなければならないのである。そんなの子供にはできないよという人がいるかもしれないが、そんなことはない。

もう何年か前になるが、子供が昼寝しているからと近くのご婦人たちとお母さんが井戸端会議をしていたときに、目が覚めた3〜4歳の子供がお母さんがいない!となったらしくてその数分間の間に勝手口から外に出て歩いて行ったというのである。帰宅したお母さんが子供がいなくなったと顔色が青ざめて周囲を探していたら、もう1キロ半ばかり歩いたということであろう、隣の区の交番で保護されたという連絡が来たという話を聞かせてくれたことがある。三千里には遠く及ばないが、1キロや2キロなら3歳の子でも歩くのである。

付き添い入院はご両親の負担にもなる。兄弟もご両親に会えないけれど、病気で辛いのは自分じゃないのだから我慢しなきゃというヤングケアラー状態になっているという研究結果はこれまでにも報告されているわけである。だからといって病気で入院している子供達に「ご両親なんて贅沢は言うな、ご両親の大変さを考えれば看護師さんや保育士さん、もしくは見知らぬベビーシッターさんで我慢しなさい」と言えるのかどうか。ちなみに最近はお父さんが付き添う事例も珍しくないのでご両親と表記すべきだと思う。

こども家庭庁は「子どもまんなか」を標榜していたのではないのだろうか。もちろん子どもだけで、と言うのはおかしいので、家族、家庭を忘れてはならないと言う意味でこども家庭庁というネーミングになったことは良いことだと思うのである。けれども、子供を置き去りにしてご両親の都合を優先するならばそれはこども家庭庁や子供政策の担当者のなすべきことと言えるのだろうか。

そりゃベビーシッターの企業にしてみれば例えば病院に子供には見知らぬベビーシッターを送り込んでご両親の代わりに世話しますよと言えばビジネスチャンスになると踏んでいるのかもしれない。フェミニストや企業経営者にしてみれば、たかが子どものために女性が企業で活躍するのを阻害されるのは間違いだ、子供なんて邪魔者は放っておけ!と言いたいのかもしれない。あ、これなら父親が休めという話になりそう。

病院が小児科でご両親の付き添いを要請し始めたのは元々は人員不足のためなどではない。完全看護を実現していた病院で子供に愛着障害が出始めたからである。だからこそ親の付き添いを求めるのは子どもの権利である。逆に言えば子供に親との面会を確保するのは病院の義務である。

最近は子供のためと言いながら実は大人の都合を優先したり、商売にしようとしたりする輩が多そうなのである。少なくとも子育てのために限らず社会のさまざまな局面でバッファはどんどん薄くなっている。

本来なら政治はこれらのバッファを厚くして子供達が安心して入院できるようにすべきなのではないかとは思う。けれども今は声をあげにくい子供に皺寄せを押し付けているようにしか見えない。


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