大きな政府と小さな政府(2)

前回までのお話

大きな政府について

大きな政府は不完全ながら民主党政権、安倍政権で行われてきたが、基本的にこれ以上は困難ではないかと思われる。大きな政府志向の政党は旧社会党だけであり、その他の政党は皆ネオリベラリズム、もしくは小さな政府を志向しているからである。旧社会党の勢力の減少を考えると日本国民も大きな政府志向ではないだろうと思う。

それでも、今後、大きな政府を目指すと言うならば、短期的には公共事業の拡大が必須ではないかと考えられる。新型コロナウイルス流行による世界的な不況はもう目の前にきているであろう。企業が従業員の雇用を抑制し始めて失業者数が増加することを考えると、その失業者を吸収する事業が必要となるであろう。もちろん、私企業が新たな事業を開始するのを間接的に援助する方法でも良いが、緊急時には間に合わなのではないか。

公共事業の勧めー国土の均衡ある発展

公共事業は2種類行うべきであろう。どちらもインフラ整備ではあるが、目標は恒久的にテレワークを可能とするための環境整備である。一つはいわゆる道路整備や通信システムのアップグレードである。これはテレワークを都心以外からでも可能にするために必要なことである。ある意味国土の均衡ある発展政策への回帰といえる。

もう一つは例えばMaaSの実践や教育システムの改変であろう。今後、日本の現役世代が減少してゆくことは確定的なので、人々を効率よく教育し、日本の活力を維持、向上させることが重要であろう。そのためにはまず教育システムをもっと効率よく深く教えられるようにすることが重要である。

高齢者は「若者に投資する金があるならばなぜ老人のために使わないんだ。若者などのたれ死んでも構わないではないか。バカの方が無茶な命令でも黙って従うからその方がいい。変に知恵をつけるといちいち反抗して困る」というかもしれないが、団塊の世代のように大量の人間がいた時代なら人間も使い捨てでよかったかもしれないが、もう人間の数が少なくなるのである。一人一人にクレバーで効率よく働いてもらわねばならないのである。使い捨てなどもったいないのである。

例えばである。今、日本のあちこちで過疎化が進んでいる。一方で東京などの大都市に人口が集中している。これは、東京至上主義者にしてみれば「韓国のソウルと同じではないか。東京さえ繁栄すれば良い。日本の他の都市は不要である。東京以外はno man’s landにしよう」と言いたいかもしれないが、そんなことをすれば他国からの侵略を受けても気付かないという可能性もある。

私は国土の均衡ある発展推進派なので東京一極集中には反対なのである。

東京と地方に複数の拠点を持つーリモートワークを前提に

しかし、東京民が東京に価値を見出し、東京に住むことにステータスを感じていることにも理解がないわけではない。それじゃあ東京に本拠を置けばよい。それと共に地方にも拠点を設けることを推進するのである。いわば別宅である。

別宅も生活の拠点にすれば良いわけである。例えば、住所を二つ持った場合、どちらかを選択して、一方の住所の住民税を半額とか三分の一にすれば良い。

そうすれば、子供は両方の住所の学校や保育園を利用できることになる。例えば、東京で保育園が待機児童となった場合にはもう一つの住所地の保育園を利用すれば良いことになる。

小中学校も両方の住所地の学校に所属できるようにすればよい。どうしても東京の名門公立小中学校に所属させたいという人は両方の学校に所属するならば文句もないであろう。ICTがあるのだから、授業は遠隔でやってもよいわけである。

もちろんそれにはリモートワークが前提である。両親はリモートワークで東京から離れ、それ故に子供も別宅から地方の学校に通うことができるわけである。両親も時には東京のオフィスに出向かねばならないこともあるだろう。その時には子供も一緒に東京に戻って東京の名門公立小中学校に行けばよいわけである。

そのためには素早く移動できる交通手段とネットの大容量高速通信網の整備が必要であろう。リモートワークにおける適切な業績評価システムの確立も重要かもしれない。

教育の改革

実際のところを言えば高校まで義務教育化してもよいかもしれない。小学校6年の初等教育と中高6年の中等教育までの併せて12年を義務化して日本人の基礎教育とするというのはどうだろう。高校を卒業した時点で、高等教育である大学、実業学校である専門学校に分ければよい。もちろんそこで進学せずに働くという選択肢もあり得る。短大高専はどうすんだという意見はとりあえず却下である。

金がねえんだと財務省はいうかもしれないが、もう小中高レベルでは各学年120万人程度であろう。団塊ジュニアの半分程度である。そんくらいの金は出せるであろう。もう少数精鋭にしなきゃ日本はやっていけないのだから国も若者に投資すべきであろう。

少子高齢化の対策

高齢者については医療は生かせることも死なせることもできるが、なぜ生きなきゃいけないのかという哲学や倫理を与えることはできない。それは文系の仕事であろう。文系の人が責任を持ってend of lifeの哲学を大衆に語ればよいのである。キリスト教の病院にはチャプレンという坊さんがいることがある。別に坊さんでなくてもよい。死生学なりなんなりの人がきちんと死を目前にした人に引導を渡して回ればよいのである。すでに死んでしまった人にいくら引導を渡しても本人はもうあの世に行ってしまっているので無駄である。

安楽死を求める人には幸い出会ったことがないが、そういう人に生きろという役目は医療ではない。患者団体でも宗教団体でも家族でも、人生の意味を見出させるのはそういう人達であろう。

あと、もう結婚制度は廃止して、生まれた子供一人ひとりの養育を国や地方自治体がサポートするシステムに変更したほうがいいのではないか。そうすれば両親揃っている家庭でもシングルの家庭でも差が軽減するだろう。シングルマザーは「別れた夫への恨みだ、大きな石を何個も背負わせてやれ」というかもしれないが、それで潰れてしまえば元も子もないのである。

「私は彼女いない歴=年齢の非モテ男です」という人にも男っ気なんて嗅いだことのない喪女ですという人にも等しく負担させるべきである。もちろん子なし夫婦にも子育てを終えた人たちにも負担してもらわねばならない。

認知症や寝たきり患者の介護についてはそれに従事している家族を例えば国が雇用している形にして、高齢者の年金を減額する代わりに家族介護者に給料を支払えばよいのである。

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