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尊厳死反対の全体主義

昨日からnoteを見ていると、尊厳死反対の人の理屈の多くは「自分も当事者として辛くても生きているのに辛さに負けて死を選ぶとは許せない。みんないくら苦しくても絶対生きろ、死ぬ選択を許せば、自分たちも周囲から同調圧力として「死ね」って言われるようになるに決まっている。」という主張をしているように思う。

つまりは問題は「全体主義」である。生きるにせよ死ぬにせよ、周囲からの同調圧力を認めてはいけないのである。いやしくも個人主義を標榜するなら他人の意見は参考にするだけであり、最終の決断は自分で責任を持って行う必要がある。

それを否定する時点でその人は特攻隊で死ぬことを煽った戦時中の大本営と本質的にはなんの違いもないのである。

いや、みんなで日本国憲法を廃止して明治憲法を復活させて帝を元の立憲君主の地位にお戻し奉ろうというのなら思わず賛成してしまいそうだが。

もし、尊厳死に反対するというのであれば、日本国憲法を廃止して個人主義を否定するのでなければ、病を得た人が「これなら辛くても希望が持てる。何とか生きてゆこう」という制度を実際に作るしかない。

それを作るには大変であろうことはわかる。けれども、これは「アベノセイ」とか「アベサエヤメレバスベテガヨクナル」というわけにはゆかないのである。お金もかかるだろう。そのお金は現役世代の人たちによく説明して理解を得て出してもらうより他ないのである。国債で出すっていうのなら財務省に「うん」と言わせなければならない。

多分、野党も野党支持者もそんな地味で苦労ばかりかかることは本心ではやりたくないのである。それより昔取った杵柄、全体主義で国民を縛り付ける方が簡単じゃないか、ということであろう。

全体主義は極右のヒトラーが使った手法だから、と思っている人がいるかもしれないが、左派政権には独裁政権が沢山あってそこでは全体主義の手法が使われているので、元々、左派と全体主義との親和性は高いことには留意すべきである。

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