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土師(はじ)の里巡礼~古墳造りの総合技術者集団の故郷~

 9月に入り酷暑が続いている。出かける気はなかったのだが、ふと思い立ち土師氏が居住していたであろう地域の古墳を見たくなった。自転車で僅か30分程度の距離だ。ためらう程ではなかろう。動くのみだ。

近鉄南大阪線土師ノ里駅前(少し高台にある。)

 近鉄南大阪線の土師ノ里駅である。大阪側から25号線を柏原で右に折れ登り坂となる。大和川を越えれば下り坂となるが、さらに登り坂となる。つまり土師ノ里駅は高台に位置するのだ。後に理由がわかる。

大和川の橋(西から柏原市役所方面を望む)

 久しぶりに自転車で大和川に掛かる橋を渡る。欄干は1mにも満たないので転落すれば命はなかろう。因みに上写真の大和川は宝永元年(1704)に本流から付け替えられたものであり、古代の流路ではない。ここでは詳細は述べない。

允恭天皇陵拝所正面(北から)
允恭天皇恵我長野北陵 高札
前方部の堀(北から)

 数十年ぶりに訪れたが、天皇陵は周辺の柵から見学するのみで、どうしても消化不良の感は否めない。眼前には巨大な前方後円墳がそびえ立っているのだが、鬱蒼とした木々に覆われており我々国民は外から想像する以外にない。人が立ち入っていない聖域、生物においては最強の天敵(人間)がいない生態系が育まれているのであろう。(巨大な大蛇がいても不思議ではない。)

航空レーザ測量図による説明板

 最近の説明板を見ると上写真のように航空レーザ測量図が示されており、大変理解しやすくなった。外からしか見学できない国民にとって誠にありがたいことである。允恭天皇陵については別名”市ノ山古墳”といい全長227mで全国第20位にランクされている。築造年代は5世紀中葉とされる。この程度であろうか。とてつもない巨大古墳があることには間違いない。土師ノ里駅に行く手前の登り坂左側に位置する。つまり台地上に築かれていることが身をもってわかるのだ。

国府遺跡(北から)
国府遺跡説明板
国府遺跡内にある衣縫(いぬい)廃寺塔心礎(西から)
塔心礎と空洞は舎利孔

 周辺を散策する途中で、国府遺跡の史跡公園と衣縫廃寺の塔心礎に行き当たった。国府遺跡は多数の人骨が出土した縄文遺跡として近畿は勿論、全国的にも著名な遺跡だ。しかし周りには何もない。これも想像を巡らす以外にない。近くに忠魂碑があり塔心礎が台座に使用されていた。心礎は衣縫廃寺のものであるという。何千年という隔たりのある遺跡、時空を感じた瞬間である。

道明寺天満宮(南から)
説明板

 道明寺天満宮は、ご存知の通り学問の神様、菅原道真公ゆかりの神社である。古くは土師神社と称したとある。いよいよ土師氏の里である。

道明寺正面(南から)
道明寺略縁起高札

 土師氏は、『日本書紀』垂仁紀三十二年条に、垂仁天皇の皇后日葉酢(ひばす)姫の陵墓造営にあたり、土師連らの祖、野見宿禰(のみのすくね)が故郷出雲の土部百人を呼び寄せて埴輪を造ったという。いわゆる埴輪献上伝説で有名な氏族である。要するに土師氏は陵墓の築造、維持、管理、埴輪の製作、棺の調達といった古墳造営に関する総合技術者集団であったことがわかる。上写真の道明寺は天満宮で著名であるが、本来は神宮周辺に土師氏の氏寺(土師寺)が存在し、その後菅原道真を祀る天満宮が建立され、道明寺と分離したという来歴をもつ。
また土師氏は八世紀末に「菅原、秋篠、大枝(大江)」に改姓される。
①大阪府堺市市に土師(はぜと呼称)の地名がある。百舌鳥古墳群のエリア
②奈良市には秋篠という地名がある。佐紀盾列古墳群のエリア
③大阪府藤井寺の土師ノ里という地名がある。古市古墳群のエリア
以上の様に、土師の地名と巨大古墳群のエリアとは重複することからも土師氏が古墳造営に関係していた氏族であることの傍証になろう。

修羅が発見場所に建つマンション(右の森は中山塚古墳)
道明寺境内にある復元修羅(木ソリ)

 最後に土師氏が活躍した物証を紹介したい。それは八嶋塚古墳、中山塚古墳、助太山古墳の3基の方墳が並ぶ通称三ツ塚古墳の場所から発見された修羅である。場所は八嶋塚古墳と中山塚古墳の間のマンション(上写真)下からで、長さ8.8mと2.9mの二基が発見され、当時大変な話題となった。修羅は巨石を載せ牽引する大道具だ。巨大古墳を外から見て些か消化不良であったが復元修羅を目の当たりにして、改めて土師氏の古墳造りに対するエネルギーと携わった人々の息吹を感じた熱い(暑い)一日であった。







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