小説 #1

今回の件で確信が持てたのは、わたくしはやはり、あの人のことが好きなのだ、ということです。

実際、あなたのような方は掃いて捨てるほどいらっしゃるんですよ。大変だったでしょうに、未だに振り回されてばかりですね、なんて口先だけ取り繕いなさって。挙げ句の果てには、縁を切られてはいかがですか? だなんて仰る方もおられるのですよ。ほんとうに下品で、傲慢な人間が居たものですね。ああいう方は、ご自分の拙い理解に少しでもそぐわない事象があると、恐ろしくなるんだと思います。自分の想像の範疇を超えた出来事に遭遇したときの人間の脆弱さといえば、なんて滑稽なことだと思いません?

ちょうど、自分の部屋にゴキブリが出たようなものなのですよ。ほうら、あなたも想像してみてください。夜、お休みになる前に、電気を消そうと立ったとき、ベッド脇の隙間にゴキブリがもし佇んでいたとしたら、あなたは無様に驚くでしょう? わたしだってそうですもの。夫を叩き起こして、家族会議を開くほどの勢いですよ。目撃以降、わたしもあなたも、少なくともいつもどおり寝床に入って安眠することはできないでしょうね。でもそれって、あなたが横たわって目を瞑っている最中、あまたのゴキブリがベッド下に蠢き、頭上を翳り、もしかしたら今、すぐ目と鼻の先にいるかもしれないとまで、思慮に耽るからではないでしょうか。ゴキブリって、一匹いれば数百匹はいるだなんて噂されるのは、あなたもご存知でしょう?

この通り、不意に遭遇した未知の体験に、人間はめっぽう弱いんです。だからこそ、わたしもあなたも即席の情報収集に駆られて、まずは未知を既知にすることを重要視するんです。すると、どうなると思います?

皮肉にも、恐怖が増幅するんです。いろんな可能性に囚われて、徐々に現実から乖離して、自己の中で膨れ上がった恐怖と格闘し始めるんです。少しばかり誇大な表現かもしれませんが、こういうものではないでしょうか。

まあゴキブリのお話は置いておいて、少なくともわたくしは、こう言う類での人間の脆弱さには呆れ果てているのです。というのも、わたくしの夫はよくこういうことを、小説の題材にしておりました。夫は、普段は路傍の小石にも劣る怠惰の塊のような存在でしたが、そんな小石から生み出された小説のおかげで、わたくしは何度感興の海に溺れたことでしょう。

『小説で人間を死なせたがる奴はなあ。どうりでからっぽな人間なんだなあ』

と煙草をふかしながら私ならご教示くださることもあれば、

『お前の作る筑前煮は死ぬまで飽きねえよ』

なんて、わたくしを意図して喜ばせてくださることもあり、時には、

『こいつには幸せになってほしいんだよなあ』

と、自身の小説の主人公の将来を、まるで肉親のように真剣に考えておられました。

夫の書く小説には、やけに難解な単語が含まれてはおりませんでした。これは、夫が無学なわけではなく、その難解な単語にものがたりの世界を侵されてしまうことを拒むためでした。弊害として、夫の小説には、無学な輩でも「読んだ」気になれる小説としての側面も現れてしまいましたが、わたくしだけは、その全てを理解しているものと自負しております。

今やもうわたくしは、母にも呆れられております。お前は早く他の男に養ってもらって、幸せになりなさいと私の将来を案じて頂いております。ですが、わたくしは十二分に幸せなのです。ただ夫のそばにいて、夫の最大の理解者たる人間として振る舞うことができさえすれば幸甚の至りなのです。

ですから、あなたの期待していらっしゃったであろう、夫の非人道的な行動の数々を、わたくしは一つも持ち合わせておりませんゆえ、このままお話を続けても互いに利益のないことだと思いますの。それでもお話を続けてほしいと言うのであれば、少し待ってくださいませんか? お茶を入れ直して来ますので。

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