不調と共に過ごすこと

5月に入ってからメンタルの調子が低迷している。
と思って「その日の気分」を記録している日記を振り返ったところ、
4月の半ばを絶好調で過ごした後、下旬から調子が崩れていき、
5月で死にかけていることがわかった。
波が激しい……。

このことについて医学的見地からどうこう言う知識はなく、当たり前の感想を言うが、「波があるとしんどいね~」と思う。
昔の私はほぼ常に「死にたい」しか考えていないような人間だったため、あの頃と比べるとずいぶんとまあ日常が生きやすくなったものだが、あの頃の良さは波があんまりないところだったかな、と思う。
ずっと最下層にいるからずっと苦しいのだけれども、それが当たり前なので、今月ちょっと調子悪いな……みたいなことを思わない。常に調子悪い。
書いてて思ったけど波があるより常に調子悪いほうがずっとずっとずっとしんどいなと思い直した。ここまでの前言を全て撤回します。

今までの文章の書き方だと、書きながら自分の主張が変わってきた時はいったん全部書き直していたんだけど
なんかそういうの完璧主義っぽくてあれだな、どんどんやめていきたいな、俺を縛るものは全部とっぱらっていきてえよという気分が最近強いので、ちょっとそのまま書き進めちゃおうと思う。

まあとりあえず波はしんどい。気分が好調だったあの頃が恋しい。
躁鬱が激しいと、気分の良さからの低下に耐えられず……ということもあるらしく、実際、波の激しさというのは馬鹿にできないなと思った。

そんな波をどう過ごしていくか、考える。
頭で考えても、低迷している私の思考回路なので、あんまり建設的なことは浮かんでこない。
特に「どう改善するか」という方向で考えると、ちょっとしんどくなる。
うまくいかないよ~~ともがき苦しむことになる場合もあるし
それ以上に、たぶん、沈んでいたい気持ちもあるからだろうな、と思う。

私の中の真っ暗闇は、最近しょっちゅう蓋を外してあらわれて、「俺、ここにいるぜ!!」と主張してくるようになった。
数年前、私がいまよりは社会と接点を持って暮らしていた頃、
私は自分の感情を感じることができなかった。
というと大げさな言い方になるのだけど……
喜怒哀楽はちゃんとあったし、人生はそれなりに楽しかったのだけど
「今、私は何を感じているんだろう」と自問し、
「本当に感じていること」を感じようとすると、
途端にものすごく巨大で膨大な負の感情が溢れ出し、
本当に発狂しかねないレベルで、
とてもそれは感じることができるものではなく、蓋をするしかなかった。

以前、「怒りなどの感情は、感じきるとなくなる」という主張を何度か見かけたことがある。
心理学的な見地からの文章だったか、それとももっとスピリチュアルとか自己啓発的な類だったのか、その全部だったかは忘れたが
まあとにかくそういうものを読んで、「ほ~んなるほどな」と思ってやってみようとしたが、感じきって感情がなくなるよりも先に俺の命がなくなるなという状態だった。

そもそも感情は、「蓋をして封印」ができるものなのか。
感じきれなかった感情は、自分の内側にたまるものなのか。
わからないし知識もない。
ただ体感として、私の中にいるこの「恐ろしいほどの質量の負の感情」は、
外に出たがっている。
いつまでも封をされることを望んでいないようだ。

封印してさえいれば幸せに過ごせるのであれば
封印したまま感じずに逃げ切りたいなと、以前は思っていた。
その頃はよく、私が家で幸せそうに過ごしている時、玄関の前で、真っ暗な顔をした自分が包丁を持って立っている、そんなイメージが頭の中に浮かんでいた。
私は何か大事なものを追い出してしまっているのだろうなと、思ってはいた。でもどうすることもできなかった。

今はあの頃のようなイメージは沸かない。
完全に分離していた真っ暗闇と私は少しずつ統合しているのかもしれないし、統合はまだでも、少しずつ負の感情を感じる時間を持つことで、いろいろ解決に向かっているのかもしれない。

となると、メンタルが低調の期間がある、というのも、
「これは悪い状態だから改善すべき」とも言えないな、と思う。
全て素人判断だから、医者からするとまた別の意見もあるかもしれないが……
(諸事情で医者にはかかれていないので、そこは本当にわからない)
少なくとも心のなかにいる暗い私は、自分を完全に封印しないでくれと思っている、ように感じる。

私は怒りたかったのかもしれない。泣きたかったのかもしれない。
もっと小さなあの頃に。
殺したかった。死にたかった。その全てを叶えるわけにはいかない。
でもせめて、調子を崩している私を「早く治さなければ」と急かさずにいようかな、と思う。

よく考える。
家庭環境がゴミカスな人間は、どうやったら幸せになれるのか。
クソみたいな環境から幸せになっている人を正直、あまり見たことがない。
探せばいるのだと思う。
ただ、目に入りやすいのは、
クソみたいな環境で生まれ育ったことによる傷を大人になってもずっと抱え続けて、そのために性格が歪んでしまったり、さらなるトラブルを引き起こしてしまったり、場合によっては犯罪に手を染めてしまったり、健全な人間関係を構築できずに周囲から避けられたり、薬に手を出したり、自殺したり、そういう、辛さが辛さを連鎖して生み出してしまう、そういう様子ばかりで。
なんとか前向きに生きて、それでも、トラウマは重くのしかかる、
そういう様子ばかり。
うるせ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
クソがよ~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!

過去がただ、過去だけのことであったら、どれほど楽か。
過去は自分自身になってしまう。自分の価値観、行動指針、恐怖、あらゆるものが過去によって作られている。
親からは逃げられても自分からは逃げられない。
過去は過ぎ去っていっても自分はどこにも過ぎていかない。

それでも、過去がただ、私を苦しめるだけのものだなんて思いたくない。
この世界をどう見るのか、その解釈は常に自分で与えることができる。
同じ環境にいても、同じ状況にあっても、人によってそこに与える意味は違う。
私の人生がどんなものなのかは私が決める。
そうはいってもその解釈すら、過去の痛みによって、望まない形になってしまうことが何度も何度もあるけれど。
負けたくない。折れたくない。むしろ味方につけたい。

私はこういう過去があることで、随分と人に助けてもらってきた。
幼い頃は誰からも助けてもらえず、それが今も「私は誰にも助けてもらえなかった」という思いをもたらしているのだけれど
10年ほど前に自分の性格をかなり強引に変えてから、
人に助けてもらえることが本当に増えたし
素直にその助けの手を取ることができたのは
「私はかわいそうだから、これくらいの力は借りても許されるのでは……」
と思えたことにある。
私がもっとまともな人生を送ってきていたのであれば、
「いやいや、そんな、悪いですよ」と言って断っていたであろう。

体を壊してぶっ倒れて救急車で運ばれたときも、正直、嬉しさが少しあった。心をどんなに壊しても助けてもらえなかったけど、体を壊すと助けてもらえるのか……!と思った。

人に助けてもらえることは、ただありがたいというだけでなく、気持ちが良い。自分はなにもできていないのに、わかりやすい価値を提供できていないのに、ただ「あなたを助けたい」という気持ちだけで助けて頂ける。
こんなに良いことってない。
こういう経験ができたことは、本当に私の人生における財産だなと思う。
これがなければもっと、自分は傲慢な人間になっていた。

心を壊すことでのデメリットは本当に数多くある、が、
いつかは「あの過去があったから今があるよ」と言ってのけたい。
私の人生全部を私は肯定したい。
じゃなきゃ可哀想じゃないか、私が。

今はまだそこまでは思えないが、
せめて最近の不調に関しては、全力で肯定したいなと思う。
これでいいんだよ。これも大事な経験だ。
これがあるからこそ経験できる様々な美しさ豊かさ面白さがあるだろう。
探せばそれはきっとどこにでもある。
見ようと思えば見えるものだ。
なんていうと説教臭いけれども。
不調というのも、悪いことばかりでもないさ。

こんなふうに考えられるようになったのだから
私はこれからなんにでもなれるし
なんだってできるよ。

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