とりとめもないこと ただの日記

友人やお世話になっている方がブログをよく書いている。
彼・彼女らに知り合うまで、私はあまり自分の思いや考えを公の場で言葉にしてこなかった。

映画や本の感想であれば書いていたが、感想を言うのと、ただ書きたいことを自由に書くというのは、自分の中で大きな差があった。
すごく簡単に言えば、感想には需要が多少あっても、個人的な日記には需要がないだろうと思っていたのだ。

けれど1年ほど前にとあるSNSに入り、そこの方々が「とりとめもないこと」をブログに書いているのを見て
私は本当に嬉しくなった。
失礼なことかもしれないが、「こんなことを書いてもいいのか」と思えた。
それに書かれている内容が私はとても好きだったし、面白かった。
自分にはあまり興味がないことが書かれていても、面白かったのだ。
それはその方々が知り合いであるからこそのことかもしれないが、
仮にそうだとして、それでもいいじゃないかと思った。
私はいつも、何と戦っているのだろうか。

思えば私は昔から、「需要があるかどうか」「金になるかどうか」で自分の行動を制限してしまう。金にもならないようなことをしていると落ち着かない。自分がとても悪いことをしている気持ちになる。
趣味でゲームをやることすら、昔は苦手だった。
最近は少しずつできるようになっているが、ゲームの種類によっては未だに「こんなん時間の無駄やんけ」と思ってしまう。

しかしこれは私の価値観ではない。私がそう思いたくて思っているわけではない。時間、めちゃくちゃ無駄に使っていきたい。というか私にとっちゃ人生は楽しむためにあるからよお!!金は楽しむ手段でしかねえんだよお!!!金を目的にしてどうすんだバカ!!!
と思っているけども。

家庭環境がいろいろあれで、いろいろあって、まあ、あれでそれで、ああなので。
もうその親はいなくとも、もう何も咎められることはなくとも、
心と体が反射的に反応してしまう。
手をふりあげられたら殴られると身構えてしまうような、そういう反射だ。

そうして昔の私は心と逆の方向に走り続け、心身を壊し、金になる行動をあまり取れなくなった。皮肉だが、たぶんこれは回復の過程として正しいのだろうなと思う。
それでも需要がありそうなことをなんとかやろうとして、うまくいかず、手を変え品を変えやろうとして、うまくいかず、
もう本当に自分のためだけの、誰のためでもないことを少しずつやれるようになった。

観念しつつある。
私は結局、私のために生きたいのだろう。それを私自身に示すために、私が自分を殺す道を選ぶと、私の心と体は必死に抵抗をする。
しんどさもあるが、良いことだなと思う。

そういうわけで、私は、どこにも需要がない(ように思える)ことを書きたい。
ただ私のためだけに書きたい。
誰にも見せない個人的な日記に書くこともあるけれど
誰かが読んでくれるなら嬉しいから、公の場に載せておきたい。
そういう試みを少しずつ、少しずつやってきたな。
このブログを始めたのもそう。

それから、私に色々なきっかけを与えてくれたSNSのメンバーとよく作業通話をするようになった。
今、メンバーのうち二人がゲームをしながらその様子を配信してくれていて
それを時々眺めたり、音を聞いたりしながら過ごしている。
心地よい。
この時間を無駄なんて呼ぶやつは俺が全員埋めてやる!!!!!!!!!

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