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【世界考察9】結果平等と機会平等

●人類皆平等

人類皆平等の概念はいつ生まれたのか。歴史は知らない。「同じ」にする脳力(誤字ではない)が高いヒトだ。姿形、見た目にあまり違いないことを考えると、平等の概念は元々内包されていたのかもしれない。

平等の中にも様々な平等が含まれているが、ヒトの姿形にさしたる違いが無いことは、全ての平等概念の根本に打ち込まれている。300メートルある人間もいなければ1トンある人間もいない。

●結果平等と機会平等

現代の平等は二種類ある。結果平等と機会平等だ。

どちらが先に生まれたのか。姿形が似ているならば、運命も、扱いも、生涯も、似ていなければならない。「同じ」にすることが得意なヒトにとって自然な発想だ。ヒトが似ていることは平等の原理となる。300メートルの個体がいたら平等にはならない。先に生じたのは結果平等と考えるのが自然だ。機会を均等にしても、似通っているというアナロジーは満たされない。平等とは原理的に〈結果平等〉でなければ意味が無い。人間社会が不平等に見えても、平等を実現できなくても、平等の概念が残り続けるのは、どの個体を取っても、ヒトの形が似ている事に対する、強烈なアナロジーに違いない。

機会平等は何か。何でもない。何も言っていないに等しい。機会を平等にしたから何なのか。機会を平等にしても、似通ったヒトが似通った運命を辿るというアナロジーを満たすことにはならない。

ではなぜ機会平等が発生したのか。

重ねるが、ヒトの個体は、ほとんど差がない。身長は高い人で200cm、低い人で150cmだとすると、差は3割程度だ。1000cmと1cmのように、極端な差がない。10m飛べるひとはおらず、1秒で100m走れる人もいない。個体によって起きる結果の差など、本来小さい。小さいから同じにする。同じにできるほど小さい。「小ささ」の幅が「同じ」の幅の定義とすら言いたい。

ある時、同じものから差が生じ始めた。なぜか。ヒトが蓄積を始めたからだ。蓄積が始まると生産に時間のスケールが含まれる。塵も積もれば山となるわけだ。生産物の蓄積によって集団を形成する意味が加速度的に増加したに違いない。かくして個人の生産物、集団の生産物に、途轍もない差が生じる。蓄積という変数によって、本来「同じ」でなければならないものが、全く「同じ」にならなくなった。さて、帳尻合わせをどうするか。

結果平等は諦めるしかない。何を同じにするか。始まりである。元々はじまりは同じだ。「似通ったヒト」は放棄できそうにないが、「似通った運命」の方は蓄積という時間変数によって放棄できる。原始状態はあくまで「同じ」。生産物を蓄積する機会は万人に与えられている。初期条件が同じだから、後から変わるのはあくまで時間スケールの問題となる。始まりを強調したのが機会平等だ。

決定論が〈結果平等〉から導かれたものならば、自由意志は〈機会平等〉から導かれたものではないか。自由意志は蓄積の概念と無縁ではない。文明が蓄積を可能にしたのは、ヒトに大きな影響を与えている。

●本当に「違う」のか?

ヒトが「同じ」ではなくなった。本当にそうだろうか。確かに個々の生産物は(現代的に言えば収入か)大きく異なる。しかし、日本国では、大体の人が、数十年は生きて、毎日起きて、仕事をして、飯を食って、寝ている。そういう意味では誰も彼も、結局は、同じような生活、同じような人生を送っている。生産物に過剰な意味を見いだすから平等に感じないのではないか。寝て半畳、起きて一畳とはよく言ったものである。

これも「同じ」にする能力の過剰か。



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