(17)身体性と多様性の関係

多様性を受容するということを、「ここにはいろんな人がいて、自分とは必ずしも価値観や好みが一致しないかもしれないし、ちがいはあるけど、それでもまぁオッケー。楽しめるよ」という感覚だとする。
その感覚は、「身体性が疎である」場合と「身体性が密である」場合と、どちらの方が得やすいだろうか。

疎である場合。
それぞれ自宅などプライベートな空間から映像と音声だけを接続して、何か不都合があれば切断することもできる。
自分を「晒す」という不安が小さくなるし、他者との対立や軋轢を避けることも比較的容易な気がする。
関係性を選択し、自分にとってちょうど良い状態を保つ。
こういう状態なら「ちがってもオッケー」を出しやすいだろうか。自分の裁量割合が大きくなっているから、「オッケーな度合い・範囲」のバランスを上手にとればいい。
暮らしの中の多様性を自分でコーディネート・デザインする日々。この数ヶ月の僕はこの状態にあるし、正直に言えば快適だ。
もし多様性を拡張したいと思ったら、自ら動いていけばいい。でも、それは恣意的になることを免れないし、僕ならたぶん「サボる」だろう。

密である場合。
リアルに同じ空間をともにして、よほどのことがない限り逃げられない(ログアウトできない)。
誰にどう見られているかがより気になるし、快も不快も非言語にうっかり表出しやすい。
選択していない出会いもすれ違いも偶然に起きる。
こういう時に「ちがってもオッケー」を出すにはある種の努力が必要になる。ちょっと踏み込んで相手の声を聴く、相手の靴を履くことをしないと、「そういうちがいがあるのか、なるほどね」とはならない。
デザインしきれないからこそ、時にぶつかりあって、それでも向き合うことで、少しずつ対等になり、受容しあえるように思う。

身体性を帯びるということは、不安に近づき、不確実性を高めることでもある。
手を伸ばせば触れられる。急に抱きつかれるかもしれないし、殴られるかもしれない。
ウィルス・感染というもので顕著になる前から、そもそも身体性にはリスクがある。
それを超えて「出会う」「触れ合う」ことを通して、僕は(人間は?)何を求めているのだろうか。

つい先日、3ヶ月ぶりぐらいに、対面でミーティングをした。ものすごく楽しかった。
もっともっと話したいと思ったし、普段よりメンバーを信頼している気分になった。対話の中で身体感覚を十分に扱えることが嬉しかった。
その土台があったから、いろいろなアイディアを拡散することにチャレンジできたという気がする。
僕としてはどうやら、「チャレンジしたい」という欲求が、自分の本質の一部になっているということに気づいた。

単純な良し悪しではない、自分の本質と結びついた関係性を、チューニングしながら探求する日々だ。

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