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俺は本が書きたいんだ

東大読書が10万部突破しました!!!!

やばいです。喜びしかないです。

本が売れる、というのはとてもとても嬉しいことです。俺が伝えたかったメッセージを、10万人の人に伝えることができたということだし、俺が書いた文章を、10万人の人が「お金を払う価値がある」と感じたということ。こんなに嬉しいことはありません。

ご購入頂いた皆様、本当にありがとうございます!

また、Twitterで「#東大読書」で本の要約をしてくれてるみなさん、本当にありがとうございます!!


さて。そんな俺ですが、最近よく聞かれることがあります。

「なんで西岡は本を書いているの?」
「本でしか伝えられないことって何?」

という質問です。
多分この裏側には、
「なんで『本』という媒体を選んだのか?」
「SNSやブログが普及したこのインターネット全盛期の出版不況時代に、なんで『本』が書きたいのか?」

という意図があるのかな?なんて感じます。

いい機会だし、10万部突破で調子に乗っているので笑、今日は生意気にも「西岡が本が書きたい理由」についてお話ししたいと思います。

みなさんは本は好きですか?

僕は本が好きです。紙の本も電子書籍も、新書もビジネス書も、文芸書も雑誌も、漫画もゲームの攻略本も、ありとあらゆる「本」が大好きです。

なぜなら本は、「何にでもなる」からです。

「世界史の見取り図」などの参考書を読めば知識になります。

「未来の年表」などの新書を読めば教養になります。

「ワンピース」などの少年ジャンプの漫画を読めば勇気になります。

「インベスターZ」などの投資の本を読めばお金になります。

「デルトラクエスト」などの冒険譚を読めば冒険になりますし、

「半沢直樹」などの池井戸潤の小説を読めば情熱になる。

本は、物語だろうが実用書だろうが、ありとあらゆるものになります。幸せにもなる。夢にもなる。金にもなるし世界にもなる。本は読み手と書き手によって、どんなものにでもなる。だから好きです。

そしてそれでいて、僕は本が「かけがえのないもの」では無いから好きです。本屋に行けば、1万種類以上の本の中から自分に今あった一冊を選べる。無限に近い選択肢があって、お金と時間さえあれば選び放題。どんな想いも、どんな知識も、ごく簡単に手に入る。それが本のいいところです。

逆に言うと僕は、「かけがえのないもの」が嫌いです。

あれがなきゃ生きていけないとか、これこそは自分の生きる目的だとか、それが人生だとか、そういう希少価値が嫌いです。

人間はかけがえのないものではない

人間には、かけがえのないものなんて無くていいはずです。東大に合格できなきゃ死ぬわけじゃないですし、家業を継がなきゃ、親の期待の答えなければ人生が終わるわけではありません。

本は、かけがえのないものではありません。でもだからこそ、「なんでもやっていい」ということを教えてくれます。なんの変哲も無い紙の束に、さまざまな想いが詰まっていて、「書き手」と「読み手」によってどんな風にでもなれる。ハッピーエンドを読んで悲しくなる日も、バッドエンドを読んで明日に希望が生まれることもある。何にでもなるし、どうとでもなれる。
どんな選択をしてもいい、人間の無限の可能性を示してくれるようではありませんか。

(ここらへんの話は、西尾維新著「恋物語」を読んで頂ければわかると思います!)

「夜回り先生」こと水谷修さんが前に、『本とは誰かの明日に夢と希望を与えるものでなくてはならない』と講演でお話ししていましたが、僕もそうだと思います。

【水谷修著「夜回り先生」】

僕にとって、本とは無限の可能性であり、選択肢です。

読んだ人の明日に希望を与え、読んだ人の未来に可能性を与えるのが本の役割であり、そういう本を作り上げるのが著者の役割です。

そして僕には、ありがたいことにそれができる。

「偏差値35のいじめられっ子が2浪して東大に合格した」、というたったそれだけのことで、誰かに夢と希望を与えられる。「なあんだ、俺もいけるかもしれないじゃないか」と、誰かが夢を持つお手伝いができる。かけがえのないものではない人生に、かけがえのないものではない俺の本が可能性を提示できるかもしれない。だから僕は本を書きたいのです。


本は「情報以上」を届ける

今の時代、「情報」が飛び交っています。

高度情報化社会と言われ、Googleで検索すればなんでも答えが得られる。Twitterで検索すれば身の回りのすべてのことがわかる。

なんでも答えが得られて、どんな情報でも得られる。

それでも本は生き残っています。出版不況と言われながらも、今でも1年に8万5千種類の本が出版されています。それはきっと、本が「情報以上」のものを提示してくれるからです。

本を得るためには、お金を払わなければなりません。古本屋で10円だろうが、「インベスターZ」のセールで1円だろうが、金銭を払わなければならない。その上で、ネットの情報と違って厚みがある。ネット記事が平均3,000字程度なのに対して、一冊の本は10万字あります。どんなに読むのが早くても、1時間以上は自分の時間を払わないとならない。

「お金」と「時間」。両方のリソースを払って、読者は本を自分のものにします。いわば、「本を読むためのマインドセット」をするわけです。「せっかくお金を払って、この厚い本を読むんだから、何か自分のものにしないと」と、受け身の体勢から能動的な体勢に変化する。

そうやって読まれるのが「本」です。だからこそ、読者一人一人が、「何か」を得る。

それがなんなのかはわかりませんが、少なくともただの「情報」でしかないということはないはずです。「偏差値35からでも東大目指していいんだ」という夢かもしれない。「こうやって本を読めば、俺も沢山の知識を得られるかもしれない」という希望かもしれない。ただ「へー、こうやって本を読めばいいんだ」というノウハウだけをもたらすものではないはずだし、「情報だけをもたらす本であってはならない」と思って、著者は本を執筆します。

俺もそうです。西岡も、本というのは、「情報以上」をもたらすものだし、そうでなくてはならないと思って本を執筆しています。

俺には皆さんに伝えたいことがあります。いじめられて、偏差値35になって、勉強しても勉強しても成績が上がらなくて、東大を目指して何度も何度も挫折して、それでも諦めることができなくて、2浪して東大に合格した人間だからこそ、伝えたいことがあるし、伝えなきゃならないことがある。そのために本を書いているし、正直まだ伝えたいことの1/4も伝えられていません。

だから俺はこれからも本を書きます。在学中に少なくとも10冊は本を書きたいです。本という「かけがえのないものではないメディア」を使って、誰かの明日に可能性を届けたい。誰かの可能性を広げるお手伝いがしたい。僕と同じように暗い闇の底で手を差し伸べられるのを待っている人に、選択肢という光を提示したいのです。

だからみなさん、本当に申し訳ないのですが、もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。

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