データあるんですか?に対して思うこと
なんかそういうデータあるんですか?
と聞かれたらカチンときてしまうと思う。(まぁ半分、無いっすよねウケると言ってるからね)
データなんかねえよと言いたくなってしまうが、
そもそもデータなんか必要なのだろうか?
今日はデータの無い話の価値について書いていく。
先にまとめてしまうと、
面白い話って妄想と偏見に満ち溢れていて、そういう娯楽を楽しむためにみなお金を払っているので、データは無いですが価値はみんなあると思ってるんじゃないですか?という内容である。
ちなみに根拠となるデータは無い。
では行こう。
よし、データの無い話について語ろうか
そもそもエッセイというものにデータは無い。
全て主観である。
エッセイストに発言権は無いのか?
いやあるだろう。さすがに。
だからデータが無くても話を続けてもいい。
つらつらと語ろう。心ゆくまで。
面白さは妄想と偏見から作られている
さて、今日の晩御飯はおでんだったので、例えとしておでんを使おう。
できるだけ面白い話にしたい。
おでんはおいしい
シンプル過ぎて逆にコピーライトっぽいが、
そっけないので何か肉付けをしたい。
おでんについて話すときにデータは必要だろうか?
いや、めんどくさい。そんな情報わざわざ常に覚えておくのが。
話なんてなんでもいい。
おでんは味付けもやさしいし、具材も胃にやさしい食材ばかりである。
この料理を考えた人は世界一やさしい人に違いない。
もし、世界に怖いひとしかいなかったら、激辛鍋しかなかっただろう。
だからおでんとは人のやさしさの象徴なのである。
さて、おでんを食べようか。
こんなもんでいいだろう。
これは妄想と偏見に満ち溢れた何も根拠のない話なのであるが、そんなことを考えながらおでんを食べると世界は少し優しくなるに違いない。これは私の妄想である。
ちなみに、オタクはこんな感じの意味不明なことを言うキャラが好きだったりする。
これは私の偏見である。
面白くない?
ゴメンね。
面白さは妄想と偏見から作られていると思う。たぶん。
さて次行こう。
荒唐無稽さを楽しむためにお金を払っている
例として鬼滅の刃を使わせていただく。
炭次郎のセリフで「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」というものがある。
兄弟を鬼に殺されても禰󠄀豆子を人間に戻すために努力を続ける炭次郎のくじけない姿が読者を惹きつける。
だがしかし、長男であれば我慢できるという偏見とこんなお兄ちゃんがいてくれたらなぁという妄想によってこのセリフは構築されていると思う。
ファンの方ごめんなさい。
あなたの隣にいる兄は酒を飲んで寝ている。
恐らく誰かには当てはまっただろう。
世のお兄さんごめんなさい。
兄であれば我慢すべきであるという偏見と体を張って戦う兄はカッコいいという妄想によって炭次郎は生まれていて、その雄姿を皆が応援している。そこでは兄が我慢強いというデータは語られておらず、荒唐無稽な空想を皆が楽しみにして読んでいる。
人々はデータの無い荒唐無稽さを楽しむためにお金を支払ったりする。
データの無い話にも価値がある。
データが無いのは悪いことではない
なんかそういうデータあるんですか?
と言われても、データを持っていない自分を恥じたりしないようにしよう。
データっていっつも持ってなくてもいいんだよと優しく諭そう。
データの無い話をしてくれる友人を大切にしよう。
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