私の精神変遷詩4(Goth)

僕がGothを知るきっかけとなったのは蟻坂さんのブログだよ。この『私の精神変遷詩』シリーズで挙げている他のテーマも間接的には蟻坂さんの影響かもしれない。少なくとも本を読むようになったのは蟻坂さんの影響だね。
せっかくなので蟻坂さんのブログのリンクを貼っておくね。
ありんこ書房 Auramorte

■Goth(原理主義)

Gothって聞いて何を思い浮かべるかな?日本だとやっぱりゴスロリかな。暗い色のドレスとひらひらのフリルとかかな。でもね、あれは歴史的にGothが誕生した経緯の原点から見れば物凄く外縁部に位置しているものであってGoth歴史を辿った上での原理主義(過激派)からすれば全然本質じゃないんだ。少しその辺の歴史を説明しようか。

まずGothの原点と位置付けられている小説があるんだ。名前は『オトラント城奇譚』っていう。粗筋としては大きなお城に幽霊がでてきて大きな兜が降ってきたりと、なんかスペクタクルでびっくりな要素がたくさん出てくるだけで現代的な感覚からすれば、多分たいして面白くない。しかし、なぜこれが起点かというと生まれた時代が大事なんだ。いつかと言うと1764年のヨーロッパ。時代的には暗黒の中世が終わって、理性と啓蒙の光に照らされた時代だね。そうした時代背景どんな感じだったと思う?まずは啓蒙する側から想像してみようか。
これまで絶対的であった教会という大きな権威を否定して「理性だ!啓蒙だ!」って人に説いて回るんだよ。やってる本人の視点からだと物凄くキモチヨサソウだし自信満々のしたり顔でやってそうだよね?だって自分が新たな規範であるとの確信の下に既存の権威の否定を叫ぶんだよ。みんなは個人的な被害者意識の下に”加害者”を制裁したことはあるかな?(笑うとこだよ!)
あれのカタルシスって強烈だよね。相手が強大で絶対的だとされていた対象なら、それを制裁するときの快感って物凄いよね。しかも当人には”理性”といった強固な正義があるんだ。これがキモチヨクナイはずがないよね?
次は啓蒙される側を見てみようか。多分ヒトコトで言うと「啓蒙とか言ってる奴ら滅茶苦茶ウぜェ」だよね。みんなは自分が最終的で絶対的な正しさの中にいると確信してる人間に出会ったことはあるかな?ちょっと関わったことのある人ならわかると思うけど、彼らは基本的に説得と自説の説明しかしてこないよね。つまりは、彼らのいうところの話し合いって自説を手を替え品を替え説明することであって、異なる意見に対しては「そうじゃない」って説得してくるだけだよね。

さて以上を踏まえて『オトラント城奇譚』がどう解釈されるか見てみよう。
世間の潮流は理性と客観の時代だ。お化けとか中世の古めかしいお城なんて唾棄されるべき前時代の非科学と封建時代の粗大ゴミだ。そんな中でそれらを前面に押し出した『オトラント城奇譚』が出てきた。するとこれが滅茶苦茶流行って飛ぶように売れたらしい。以下の文章はそうした背景をもとにすれば理解できるかな。

もともとゴシックは流行や時代精神への批判であり、好悪のフィルターを通さないままやみくもに新しさにとびつこうとする安易さや卑俗さを否定するものである。また無理をしてバランスの良さを目指さず偏奇なまま、善悪や利害よりも好悪に忠実であることがゴシックの条件であったはずだ。
高原英理『ゴシックハート』

この「時代精神への批判(理性と啓蒙への反発)」から「偏奇なまま、善悪や利害よりも好悪に忠実であること」を目指そうとした部分が私の精神の変遷とよく似ている部分だね。

Gothの原点での精神が理解できたかな。流行や時代精神への批判とはいっても、なんでも反対するのは大雑把すぎ・楽すぎ・危険すぎる物の考え方だ。少なくとも安易な結論に飛びつくような態度はGothによって否定したい態度とは同類だ。上記に関しては既存の規範を打ちこわしたその瓦礫の上に新たな規範を打ち立てんとする結論ではなく方針であるといった解釈をしているよ。

■補足

一般に「ゴシック」で想定されるような大聖堂とか廃墟とか薔薇とかの耽美なモチーフとかアングラサブカルっぽいのがカッコイイと思ってた事がそもそもの始まりかもしれない。今回は思想的な部分に絞りたいので、そうしたモチーフへのあこがれはまた別の機会で。

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