論理学のアナロジーで日常を営む意識の解体

虚無と孤独を埋め合わせるために社交に頼ってるようなFAKE野郎といった意識に苛まれたりしてます。ここでの虚無の実質としては無常観と言ってもいい。つまり現在の自分が価値を感じている営みや、肯定的な感情に永続性が無いと自覚すること。そうした自分の内側の感覚は失われうること。そうした無常感を前提としたうえで思索を始めようとする態度の事です。こうした態度を採用したくなる積極的な理由としては、なるべく普遍的で不変的な思索の結果を引き出したいといった理由がある。例えば、現在の私がラーメンが大好きだとしてその熱量が続くことを前提にした思索はそうした感情が失われうる事を考慮に入れていない意味において将来的にも真であり続けることに確信がない。
虚無と孤独だけが思索を進める足場として頑健であるように思う。つまり虚無と孤独だけを前提とした思索であれば、自分がこの先どのような状況に陥ったとしてもその状況で通用するはずの思索となっているはずだ、といった思いである。例えば自分をとりまくあらゆる関係性が破綻して、自分が好きだったあらゆるものに関心が持てなくなっている状況などであっても虚無と孤独は私の傍にあるだろう。初めの一文に戻るのであれば、虚無と孤独ぐらいしか真理として寄る辺にすべきでは無いのに、社交のような即時的に満足感を提供してくれる不安定な足場に縋って本質と向き合って無いFAKE野郎といった罵倒となるだろうか。

今回のテーマはこうした意識の解体です。
まず普遍的で不変的なものをあらかじめ考え出しておこうとする発想が良くない。そもそもとして論理学のように言葉が厳密に定まっていて議論の領域が十分に整備されているような思索の場と、日常言語のように言葉の定義に厳密性がなく議論の領域が整備されていない思索の場を同等に扱おうとする事に無理がある。つまり論理学のアナロジーで日常言語を捉えようとする発想自体が間違いです。論理学であれば一つの間違いで議論全体が破綻しうるので「間違えないこと」を最重要な尺度として採用することは妥当なのだけれど、日常言語では矛盾なんてありふれているじゃないですか。この矛盾という言葉自体も論理学からの借り物なので注釈をつけておくと日常言語で矛盾のように見えるものは、論理学における矛盾のように決定的に破滅的なものではない。それはたぶん言葉を解して、見方を変えて、解釈を与えれば意味が通るものになる。あるいはそのような視点を探そうとすべく思索をすべしって要請されている。というか論理学の用語をそのまま日常言語にも同じ意味として持ってくるから混乱が生じるんだよ。日常言語の実践の外に立とうとするな、あらかじめ一般論を打ち立てようとするな、実践の中に立ち返ってその中でもがけ、ざらざらした大地に帰れ。などそのあたりを標語として採用すべきです。

日常言語を用いた思索の場において虚無と孤独だけを前提として思索を進めるのは「間違えないこと」を求める立場では妥当なのですが、私の生存にとって「間違えないこと」の価値がそこまで大きくない。というか日常言語の文を「間違えてる」/「間違えてない」で分類しようとする発想が良くない。例えば芸術作品、感性、美意識、創作などなど。そうした領域と真偽概念は相性が悪い。詩なんかに顕著ですが、日常言語の表現力の拡張などの営みは明らかに素晴らしいものであって真偽概念に囚われている限りそうしたものは全然出てこない。そして私が踏み込んでいたくて、それで破滅するならまぁええやろって思えてるのはそうした領域だよな??自分がそうした領域から離れそうになっているときに適切に軌道修正する方向で思索のエネルギーを費やしていたい。一番初めに挙げたようなよくわからん意識に苛まれて落ち込む方向でエネルギーを消費したくねー!って思えました。
あーでも気分が落ち込むと感性と思索が昂るのはまぁあるわね。そして今回のように自分を説得しようとして思考が回ることもあるわ。何を言ってるかか要点を得ない文章ですが自分を説得できたので良しとしましょう。


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