私の精神変遷詩1(客観期)

なんというか反省文も含んでいる。最終的に「自分自身にのみ根拠を持つ価値観しか信じたくねぇなァ」といった所に行き着くまでの自分語りの一番初めの記事。この記事は反省文多め。

■高校生ぐらいの頃のお話

始まりは、自分は頭が良いと勘違いするくらい頭が悪かった頃のお話から。公的で客観的で論理的なものに憧れていた。”笑い”や”楽しい”といった感情を幼稚で唾棄されるべきものだと考えていた。そもそも感情自体が捨て去られるべきものだと考えていた。価値や評価が人間に依存して定まっているもの全体が嫌いだった。様々な物事が論理学と同じぐらいの客観さと厳密さで定まるべきだと思っていた。中二病だった上にクールでダウナーな感じのキャラをカッコイイ!と思っていたオタクだからである。
「仲間との絆って最高だぜ!!」「人を好きになるってとても素敵だと思います!!」といった俗でモノスゴク人間的な主張を軽蔑していた。それらは馬鹿に向けた馬鹿のための言葉だと思っていた。またなぜか少年ジャンプを幼稚さと単純さの象徴として嫌っていた。(これは意味不明で面白い。)
もちろん恋愛なんて私が嫌う最たるものだった。しかし性欲は湧いた。もちろんクールな自分がそんな劣情を抱くのは認めたくなかった。私はこれを「美しいものを剥製標本にしてオブジェにしたい欲求」と解釈した。(だからお前は歪むんだよ)
自分を客観的で頭のいい人間だと思いこむ人間の常として、自分が理解できない人間を軽蔑し、その人間に見向きもしない冷たい態度をとるような事が多々あった。「優れたこの私の客観的な判断によって貴方は無価値と判断されました」といった感じで自分の判断を自己参照的に正しいと思っていた。嫌った人間への対応は「尊厳を持った一人の個として扱わない」ような態度だった。もともと思い込みが激しかったので、一度嫌った人間に対する態度は徹底的なものだった。今から振り返れば、”学校での成績”といった、モノスゴク単純で人間を順序付けるのには一面的すぎる尺度で全てを評価していた。「自分が優れていることを確認できる尺度」というのは脳の大好物のようなので、どんどんそれを信じるようになっていった気がする。また、勉強がしんどかったので自尊心を保つ安易な手段として「他人を馬鹿にする」といった手段をとっていた部分もある。当然だけど友達っぽいのはいなかった。というか離れていくよね。私が人慣れしてない原因はこのあたりだね。

この時期はあんまり書けないな。とりあえずは「公的で客観的で論理的なものに対して強い執着があったこと」だけ伝われば十分。次回からテンション変わるんでよろしく。

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