気づかれない微妙なさじ加減をするのが運営上手なカルト教会

極端なカルトなら誰も近寄らないですが、概ね正統派の教会でありながら誰にもはっきりと「カルトだ」と言わせない程度の微妙な歪みを入れて、人の行動を微妙にコントロールしているのが運営上手なカルト教会です。

12月に入ると、だいたいどこの教会でもクリスマスをテーマにしたメッセージが語られます。いままで20年近く同じ教会でそのメッセージを聞いてきましたが、今年は別の教会で同じテーマのメッセージを聞いています。

微妙にカルト化している教会とそうでない教会で聞くメッセージには、やはり違いがありました。

簡単に言うと、カルト化していない教会では恩着せがましいことを言わない。ということでしょう。

聖書どおりにいけば、イエス様が人間の罪を全て身代わりに背負って処罰されるために生まれてきてくれた。そして本当にすべての人間の身代わりとして十字架の上で死なれた。そうやってすべての人に救いがもたらされた。喜びましょう。

そういうシンプルなメッセージになります。

しかし、カルト化教会ではそこからまた話が続くのです。

「身代わりに命を捨ててくださったイエス様の愛に感謝していますか?」「どうやって感謝を表しますか?」「本当に感謝していたら、必ず行動に表れるでしょう」「信仰は行動に表れますよ?」

そうやって、ただ喜ぶことに罪悪感を感じさせるのです。

「もちろん感謝している。イエス様の愛に応えるにはまだ不十分だろうか」「もっと自分を見つめ直し、イエス様を見上げる信仰者にならなければ。」「え?掃除当番のメンバーが足りない?イエス様の愛に報いるために私も掃除当番に入らなければ。」「え?献金が足りない?新しい物を買うのを我慢して献金にあてよう」「家族のことも考えると、今度の礼拝はお休み・・・だめだめ、家族より命を捨ててくださったイエス様を優先させないと」

行動の原動力が感謝なのか義務感なのか罪悪感なのかわからない。いつもちょっと無理して頑張る。そんな状態にコントロールされるのです。毎週すばらしい聖書のメッセージにほんの少し罪悪感のエッセンスが混ぜられ、薄っすらと誰にもわからないレベルでマインドコントロールは続きます。

そうやってコントロールされた教会員は、真面目で勤勉で牧師の話をよく聞き、毎週欠かさず礼拝に出席し、毎週欠かさず礼拝献金をし、毎月欠かさず月定献金をします。教会経営は安定し、真面目で品の良い教会員が集う一見健全な教会となっていきます。一見。

しかし、心の中にはどこか不安が残ります。救われているはずなのに。

微妙に不安を感じさせることが教会員を逃さない秘訣なのです。この方法で教会を立派にしたり、牧師の生計を安定させることはできます。ただ残念なことに、人間の全部を赦すために犠牲になったイエス様の本意とは違いますよね。


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