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「いい人」も「わるい人」もいない。一人の人間の中にいい部分悪い部分が混在している。

新約聖書の中でイエス様が10人の病人を治した話。病気が治ってからお礼を言いに戻って来たのは10人中1人だけだったという話。

今までの教会での教えでは、自分はちゃんとお礼を言いに行った人。自分えらい。間違ってない。今だってほら、神様信じてるし。でもでも、自分の周りのほとんどの人が神様信じてない。そういう人は恩知らずだよね。わかってないよね。はやく気づけばいいのに。かわいそうにね。代わりに神様に祈ってあげるよ、あなたが本当に大事なことに気づく日がくるように。ちゃんと神様にお礼が言える人になるように。アーメン。

ぶっちゃけるとこんな感じだった。それを仰々しく「ああ、神様、こんな私さえ赦して愛してくださった神様、どうか○○さんのことも救いに導いてください」なんていうふうに、へりくだっている風に祈ることが良しとされていた世界で生きていた。

でも今は違う。

私はたぶん、10人の中の誰にでも当てはまる。時と場合によって違うけど、いい行動をする時もあるし、恩知らずな行動をする時もある。普段の自分の様子からそれはわかる。

お世話になった相手へのお礼も、日ごろの忙しさで後回しにしてしまうことがよくある。ていうか、お土産もらった時にあとでお礼を・・と思いつつ、すっかり忘れていることの多いこと。それに「ほんとうにあの人がしてくれたんだろうか?」とか「別にわざわざお礼を言うほどのものでもないかな?」とか、なんだかんだ言い訳を考えたりもする。そんなことばかりじゃないけど、ちゃんと感謝を伝える時もあるけど、それでも10人中1人のような行動をいつもしているかというと、かなりの疑問が出て来る。

正しいとか正しくないとかいう話ではないと思うようになった。それよりは、自分が今していることはどうなのか考えるための話のように思える。

一貫して悪い人も、一貫して正しい人もいないというのが現実的だと思う。

だから、こういう良い例悪い例の話が出てきたときは、自分はどっちだと単純に判別できるはずがない。そうじゃなくて、その都度自分の行動をよく考えるためのテキストなのだろう。

「10人中お礼を言いに行った1人」のようでなくてはならないという呪縛から逃れることができて、自分のいろんな部分を直視することができるようになった。卑怯な部分、不誠実な部分、無責任な部分、融通が利かない部分。。。私ってこんなとこあるし、けっこう人に迷惑かけてるわ~~~やらかしてるなぁ~~~~ と、素の自分をかなり直視して生きられるようになった。

ていうか、なんで今までそれがわからなかったのかな。

自分は正しいと思いたい無意識の欲求にやられていたのかな。

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