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帝国に挑む(6) ~弱い~


小学校の給食を味わった記憶が一度もない。
記憶を忘れたわけじゃなくて、たぶん、実際に1度も味わっていない。
「牛乳」「コッペパン」「マーガリン」「大おかず」「小おかず」を大急ぎで喉に流し込んだ。
直後、「ご馳走様でした!」と叫びながら、ロッカーの上に置いてあるドッジボールを抱え、教室を飛び出す。
廊下を走ると怒られるから、先生とスレ違う時だけ競歩みたくなる。誤魔化すにしては雑だ。

昼休みの運動場は陣取り合戦だった。

一番乗りの子供が、片足をズーズーと引きずって、砂煙をあげながら、つま先でドッジボールのコートを描く。
このコートのサイズが、昼休みの満足度を決定する。
早く給食を食べて、大きな大きなコートを描いておくと、遅れてやって来た友達に感謝されたもんだ。

だけど、ときどき、後からやってきた上級生が、ボクらのコートの上から、ラインを引いて、スペースを横取りした。
ムカッ腹が立ったんだけど、あの頃は、学年が1年違うだけで体格が全然違ったので、立ち向かうことができなかった。逆らって殴られるのが恐かったんだ。

仕方がないから、ボクらは、上級生に削られて変な形になっちゃったコートでドッジボールを再開した。
言いがかりをつけられやしないか、上級生にビクビクしながら。
早く上級生になりたいと思った。


昼休みが終わる5分前にチャイムが鳴る。

汗だくになったボクらは、ゲームを切り上げて、靴箱前の水道に走る。
蛇口の先を180度回して、上に向けて、たらふく水を飲んだ。
人生最後の給水ポイントぐらいの勢いで、ボクらは時間ギリギリまで水を飲んだ。
なんで、あんなに水を求めたんだろ?

教室に戻ると、掃除の時間だ。
ところが、その時間になっても、まだ、給食を食べている女の子がいた。
給食は残しちゃいけない決まりになっていた。
雑巾掛けしなきゃいけないので、机を一旦教室の後ろの寄せるんだけど、女の子は、机と一緒に教室の後ろに寄せられて、泣きながら給食を食べていた。

また、あの子だ。

あの子は、いつも掃除の時間まで給食を食べている。身体は小さいし、きっともう、お腹がいっぱいなんだ。
先生の目を盗んで、ボクがかわりに食べてあげようと思った。


でも、できなかった。
そんなことをしてしまうと、「好きなん?」「意識してんの?」とクラスの皆に、からかわれてしまうからだ。
たったそんな理由で、ボクは自分を守って、あの子を見捨てた。

教室の後ろから、時たま鼻をすする音が聞こえる。
雑巾掛けをしながら、ボクの胸はずっとズキズキしていた。
胸を痛めるぐらいなら、とっとと助けにいってやれよ。

あの頃の思い出を掘ると、泣いている人を助けることができなかった思い出ばかりが蘇ってくる。


あれは、夏休みに入る前の日だ。

先生から配られたプリントを後ろの席の子に回していると、突然、隣の席からビチャビチャと音が聞こえた。
見ると、ボクの隣の席の女の子の足元の床が水浸しになっている。
水筒のお茶が溢れちゃったのかと思ったけど、違った。

先生が慌てて駆けてきて、雑巾で床を拭いた。
女の子は両手で顔を隠して、泣いている。
きっと彼女は勇気がなくて、授業中にトイレに行くことなんてできなかったんだ。

先生は、泣いている彼女の手を引いて教室を出ていった。
「自習」という形で、生徒だけが教室に残った。
皆が口々に彼女の噂をしている。心配している子もいたし、バカにして笑っている奴もいた。

しばらくすると、先生と一緒に彼女が帰ってきた。
教室を出て行った時はスカートだったのに、ジャージに履き替えている。あまりにも残酷だ。ジャージは、たぶん、保健室で借りたのだろう。

あの頃、ここがボクらの世界の全てだった。そこで、失敗をしてしまった彼女の絶望は計り知れない。
彼女は席に着くと、また、肩を震わせて泣き出した。
ボクは、必死でかける言葉を探したけど、見つからなかった。
見つかっていたとしても、たぶんボクは、また自分を守っていただろう。

ボクは無力だ。あまりにも弱い。
この時、声をあげたくても、あげられない人の気持ちを知った。


隣で女の子が泣いている。
明日から夏休みだったことが、唯一の救いだった。

【写真】蜷川実花

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