人生論ノートで生と死の概念の逆転が起きた
眩しい夕日に照らされながら、枯れ草を踏みしめて草原を歩きました。
小梅がやわらかな光を受けて喜び走る姿を見ながら、束の間の穏やかな時間でした。
最近、名著と呼ばれる「人生論ノート」(1937年〜/三木清)という哲学エッセイを知って読んでいます。ものすごく難しくて、何度も反芻してもわからないことだらけの本ですが、その中の一説に、「生は特殊的なもの。死は一般的なもの」とありました。
生きていることが当たり前の私たちにとって、生きることが特殊とは?
そこで、ふと生命誕生について考えました。地球に生命が誕生する以前、というか宇宙は元素とか無機的なものばかりです。生物学者の福岡伸一さんは、生き物は分子の淀みであると言いました。
そうか、宇宙はそもそも、無機質なもの、生命でないものでできている。だから、人間の体を構成している分子とか、元素とか、死んだらバラバラになるけれど、もしかしてその状態が一般的で、分子が淀んで命を持つことが宇宙では特殊ってことなのかな?
そう考えたとき、大きな衝撃を受け、しばらく呆然としてしまいました。
生と死の概念が逆転するなんてことが自分の人生においておこるなんて、想像もしていなかったので。
私たちは一時的かつ特殊的な「分子の淀み」であり、またいつか無機質なものに還っていくのに、なぜ人の一生はこんなにも重く、私たちは死を恐れるんだろう。
それは、私たち人間が、儚い短命な生き物であり、それに見合った時間的尺度でしか物事を見られないからだと思う。
地球史や地質を学べば多少その尺度から解放されるのだけど、完璧ではない。完全に解き放たれるのは、人生を終えた時なんだろう。
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これはFBに投稿したそのままの文章なんですが、生命は増殖する、とコメントもらって…
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あ!!そうか!
細胞レベルでも個体レベルでも増殖する(つまり生きる方向に向かっていく)のが生命ですから、私たちの思考が生に執着するのも当たり前のことですね!あ〜〜そこに気づかなかった
細胞一個の状態でも生きよう、生きようとする私たちですから、たとえ分子の淀みになったってそれが続いていても不思議はないか。
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