雑記3-3:今この瞬間心にある瞬きを忘れてしまうような衝撃の話

3か月ぶりの更新だが、近況を語るつもりも余裕もなく、今この瞬間の話だけをする この瞬間のスナップショットを書く
そう 余裕が無い あと20分で家を出なくてはならないし、昼ご飯も食べなくてはならない だけど忘れてしまうのが嫌だからメモっておく 正しく備忘録というべきもの こうやって句点を打つ余裕が無いのも、それは今を正しく書こうとするとこうなるからで、きっと読みにくいけれど、これは自分のための、もっといえば今の自分のためのものなのでこれでよい

さっきまでが朝で、昼に差し掛かるまでの間に、とあるアーティストの曲を、おそらく30曲くらい一気に聞いた。すがるように聞いた その朝僕は、もっと大事なものを取るという名目で大事なものを諦め、諦めたにも関わらず部屋の中でもぞもぞと空転し、何も進まないまま怒りだけが溜まり、どうしようもなくなっていた どうしようもない状態でこそ聞きたい、聞くべきだ、聴こうと思っていたアーティストがいた そのためにとっておいたわけではなく いやでも 今聞いている全てが刺さらなくなったときに、こそ、聴くべきだろうと思っていた これがきっと、最後の力をくれるはずだと

何の根拠もなしに、いやここに書けない微かな根拠はあったのだがほとんどなしに、そう思っていた


30曲のほとんどすべてが、
わからなかった。

わかるとはどういうことかというと、少なくともここでは、自分の内面との共鳴が発生すること、曲の中のものと自分がリンクすることで、「わかる」曲は、自分を先に進めてくれることがある。もしくは、優しく寄り添ってくれることがある。

同じ日本人が書いている曲であることもあって、大抵の曲は「わかる」気になっていた。実際大抵の曲は少しでも、「わかる」という気になれる。歌詞に込められたメタファーとか、裏の意味とか、本当の意味とかなんか知らなくても、「わかる」と思えたらわかっているのだ わかるとはそういうことで、理解するとは違うものなのだ 今この瞬間は

たぶんわかると思っていた 結局1つくらい わかるだろうと思っていた

まったくわからなかった そこに期待していたものはなかった

期待していないものが、大量にあった
それは苦しくない ただ塊がそこにあった

まったくわからないものを見た結果、自分は自分なんだ、ということが、今まで無かった側面から補強された 自分は結局ありふれたの何かのコピーのツギハギでしかなく、組み合わせが膨大になることのみによってオリジナリティを得ていると思っていたが、どうやらそうではない可能性がある こんなにもわからない何かがある

今抱えている衝撃はプラスでもマイナスでもなく、ただただ純粋な衝撃がある これを咀嚼できていない 処理中 ワーキングメモリのランプが緑に光り続けている 

気づけば数分間瞬きをすることを忘れてしまうような衝撃に出会うことが稀にある これはその稀なものの一つ メモっておきたい これはこのままだと形に残らないから

終わり 間に合った 良かった もう大丈夫

会えてよかった 今で良かったのだと思う こういうものは今しかないことが多い ありがとう



今の気持ちに近いカメラロールの写真は無かった。写真は無し。


追記:燃えるような火種が欲しかった 分かりやすい火が欲しかったのだけど ガスも出してないクセして火をつけてくれればだなんて馬鹿げていた 分かりやすく火をつけてくれるバーナーがどこにも見つからなかったことが、かえって内側に火を灯してくれた 変な話だ 結局、自分を燃やすには自分が燃えるしかない 手も足もまだついている これからが-150℃ -150℃に向かう直前に、一度凍死した直後に出会えてよかった やはり今だったのだろう 今であったことに出来るのだろう 家を出る

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