ニシムーは限界のようです。


ボクは今山口県で就労移行支援事業所という場所に通っている。
週5、6日で月に9000円前後の工賃を受け取って軽作業や訓練をしている。
ボクとしてはこのまま就労移行して山口県内に就職することは本望ではない。
だから今の状況は自分がやっていることやその結果得られるものがボクが望んでいることではないということである。
「ならとっとと京都に戻って来ればいいではないか」と思われるかもしれないが、そういうわけにもいかない事情がある。
29歳にもなって親がどうのこうのという言い訳をするのは正直言ってメチャダサいが、事実両親に反対されているから京都に戻りにくいのである。
要するに両親に心配されているから京都に戻るに戻れないということだ。
これは両親の過保護なところに問題があるのではなく、ボクが両親の顔色を伺いすぎていることに問題があると自分では思っている。
現実問題としては今のボクが経済的に両親の援助を受けずに京都で暮らしていくことは不可能ではない。(問題があるとしたら引っ越し費用ぐらいだ)
京都で暮らすには扶養から外れて生活保護を受けながら、ライターの仕事かバイトをやっていけば無理なく暮らせていけるはずである。
事実、日本には非正規雇用で一人暮らししている人は山ほどいるだろうし、両親の援助を受けずに一人で暮らすには正社員じゃなければならないというのはおかしい。
しかし、ボクの両親は反対するだろう。生活保護なんてみっともないものだと思っているだろうし、もしかすると信じたくはないが生活保護を受け取るのは人間ではないぐらいの認識を軽い気持ちでしているのかもしれない。
「人間として当然の権利」ではなく「人として恥ずべきこと」だとしているだろうし、正直なところボクの精神疾患に関しても恥ずかしいとかみっともないとかそう思っているに違いない。
人よりも劣ることを過剰に恥ることをボクは心底嫌っている。
ボクの方針では両親を安心させてから京都に戻ることがベストだと思っていたが、両親が安心する条件をボクは間違えていたのかもしれない。
それはおそらく山口県で正社員として就職することであって、大雑把に餓死する確率を減らすことではなかった。
山口県に住み、実家で暮らすというのはさすがにしんどい。当初の目的では京都内での就職先が見つかり次第戻る予定だったが、いつの間にか山口県内で就職する方向になってしまった。
山口県がイヤだと言っても京都や東京のような場所の面白さは自分が生み出した面白さではないし、山口県が退屈なら自分が面白いことを始めればいいし。居場所を作っていけばいいと思っていたが、ボクの力では限界があることを感じている。
地方の人口流出は問題だし、京都や東京という場所に行くのはどうも消費者になってしまうようでよくないような気もしている。
しかし、大切な仲間や大好きな友達の近くで暮らしたいのが本音である。
両親は正社員になることを望んでいて、非正規雇用ではダメだと言っていた。(結果、仕事が少ない山口県で非正規雇用以下の状態になっているが)
山口県にはあまりにも仕事がないのでドン・キホーテのアルバイトに応募したら母親に怒鳴られたときはこの人には想像力がないのではないかと思った。
そもそもは京都に居たときにボクが熱心に就職活動していなかったことが原因ではある。
友人からは「派遣だったらうちの会社で働けるよ」とも勧められたが、それをボクは断っている。結局、今では非正規以下のことをするハメになってしまっているのである。
現在、事業所では事務職を希望して就労移行の計画を立ててもらっているが、心の底からボクはそれを望めないのだ。
両親がどうのこうのという理由だが、そんなもんさっさと無視して自由に生きればいいのだが、なかなか思い切れないでいる。
それにしても家族とは一体なんなんだろう……。
家族主義は資本主義の発展とともに解体されつつある価値観だが、信頼関係が「血縁」という根拠の下に成立するというのは現代では幻想であるとボクは思っている。
「信頼」或いは「信用」には根拠がないため、そこで何か絶対に揺るがない事実としての関係性を根拠にしようということで「血縁」が用いられているのではないか。
ボクとしては血縁という「揺るがない関係性」に意味を求めることに関してはそこまで反対ではない。
というのも人間は生まれて死ぬだけでそこに意味はない生き物であるため、意味のない「人生」に自我が耐えられなくなってしまうため、家制度というものが存在しているのではないか。
自分が消滅してしまうという恐怖に耐えられない故に「宗教」が存在し、宗教とは自我を安定させるために必要な文化である。
そこで家制度はある種の宗教的な文化活動で「家」という永久不滅のシステムを守り続けることによって、個人の死は死を超越し、永久に「家」の一部として生き続けることができるという効用がある。
そこで天皇家は大昔からずっと家系が続いているという国民達のモデルとして存在しているのかもしれない。
しかし、資本主義の発展が家制度を解体させつつある。それは西洋的な「恋愛観」が台頭してきたことに原因があるだろう。
日本で恋愛が大衆化したのは60年代70年代にかけての学生運動を中心としたカウンターカルチャーのある種の敗北(勝利と言う人もいる)によって、日本の若者達が恋愛の世界に飛び出ていってしまい、結婚と言えばお見合いではなく、恋愛結婚と考えられるようになってしまったそうだ。
現代は家制度の役割が弱い時代になりつつあるような気がするが、それでも家族という関係性がボクから自由を奪っているような気がしてならない。
そんなものはさっさと無視して自由に生きればいいのだが、そういうわけにはいかないと思ってしまうのはなぜだろうか。
ボクがもし家庭を持った場合、子供が居たらなんとなく楽しいのだろうなーとは思うものの、そんな理由で子供を作るのは親のエゴなのではないか。
家族主義が解体されつつあり、家制度が自我に永続性を付与する役割が薄くなり、恋愛至上主義や資本主義が発展した結果、子供がコストになってしまうという価値観に変換された。
資本主義は合理的であるため、損得勘定で物事を図り、子孫を残すのも損得勘定になってしまうたため、少子化になっているのだと思う。
家庭を作り、子孫を残すことに意味があるとすれば、それは合理性を超えたところに意味を見出さなければならないのではないか。
そういう感覚でボクは家制度を完全に否定できないところがあるが、見直す必要はあるとは思っている。
今後、ボクが家出をするとして、家族とは何かを考え直す必要があり、それは日本の宗教文化の意味を問い直す膨大な仕事になってしまうかもしれない。
ボクの中にある家族主義という幻想を家族ではない他者にぶち壊してもらいたいし、本当はもっと自由に生きていきたい。両親の顔色を伺って一生を過ごしていくのは嫌だ。
もしボクが家出をしたり、そのようなことを言ったら母親は「そんなに私たちのことが嫌いか」なんてことを言うんだろうなと思う。
ボクは家族や両親が好きでも嫌いでもないが、自分にとって特別な存在だとは思ってるし、関係は悪くはないが、何かモヤモヤしているものがある。
さて、それでは今後のことを考えていきたい。まずは事業所をやめることからである。
担当の人の実績にならず、徒労に終わってしまうことは非常に申し訳ないが、惰性で続けて行くよりも早めに切り出しておいた方が向こうとしても有り難いだろう。
やめたあと、京都に行くとして、引っ越し費用がかかるから今のうちにライターの仕事をしてお金を集めておく必要がある。
他にもクラウドファンディングという手もあるが、これはボクとしてはできるだけ避けたい。
京都に行ったあとは扶養から外れて生活保護を受け取りつつ、ライターの仕事を受注しながら生きていく。こういう感じで行きたい。
余裕があれば、シェアハウスなんかも運営したいとも思っているし、前に言ってた便利屋の事業も始めてみたいとも思っている。
ふと思いついたことだが、シェアハウスと便利屋を混ぜてやってみるのも面白いかもしれない。
「シェアハウスに住む人には賃労働もついてくる」ということができたらかなり需要があると思うのだ。
理想的なのはRPGのクエスト感覚で仕事に行ったり行かなかったりするシステムを作ることだが、そこまで高度なシステムを作っていくのは難しい。
とにかく自分ができることとやりたいことを分けて考えて、分相応に生きながらできることを増やしていくことが大事だ。

とりあえず、京都で一人暮らしするのに必要な条件。
・事業所をやめる
・両親との折り合いの付け方を考える
・住居を見つける
・引っ越し費用を稼ぐ
・扶養から外れて生活保護を受け取る
・ライターの仕事である程度稼げるようになる(できなかったらバイトを始める)

生活が安定した後の方針
・便利屋検定やDIYアドバイザーの資格を取得する(営業などのスキルを身に付ける)
・シェアハウスの運営、仲間集め
・収入が増えたら生活保護をやめる

という感じだろうか。そんなこんなで来年までには京都に帰ってくるつもりでやっていきたい。できるかなー……


2019年9月9日 ニシムー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?