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カメラを向けられるっていう圧はどうしても生じると思うんですが、その圧をナチュラルに取っ払ってくれたファインプレーについて。

なかなか遅い時間の更新になってしまいすいません。

本格的に季節の症状(花)が襲ってきている日々なのですが、今日は特段と酷くて僕のCPU的なものが極端に落ちています。

目も痒みの極みで正直開いてんだか開いてないんだか分からない状態ですが、なんとか頑張って書いてみたいと思います。

というわけで…

昨日の記事で「番組の構成から七尾愛を感じた」みたいな話を書いたんですが、今日はその取材を通じて改めて「いやはやとっても大切なことだな」と思った部分を少しピンセットで摘んでみようと思います。

そもそも昨日の記事の終盤くらいで…

「こういう人がカメラ回してくれてると安心する」っていう所作が多々ありまして、それはそれでまたもうちょっと掘り下げていつか書きたいと思います。※むしろ明日書くかも

なんてことを書いていて、むしろ「明日書くかも」とすら言及しているんで書いてみます。

今回、30分間のドキュメンタリー番組にしていただくにあたり、テレビ大阪さんには年明け初めて大阪に戻ったあの日からずっと誠意ある取材をしていただきました。
(※まだご覧になられてない方はぜひ見てください)
https://www.youtube.com/watch?v=YsPI7fxBRL4 

その辺りの話は昨日もそうですし過去にも何度か書かせてもらったので改めては言及しませんが、今回はかなりニッチに話題を絞って「カメラ(マン)」について書いてみたいと思います。

今回ずっと帯同してくださったカメラマン(毛利さんと言います)の方の現場での振る舞いを見ていて「いやあ〜こういうちょっとした事が人によってはけっこう大事なんだよな」って事がいたる場面で垣間見えたわけですが、基本的にカメラってやっぱり天然で威圧感あると思うんですよ。

僕らみたいな撮られる事も仕事の一部としてずっと生きてきている部類の人間ならともかく、そうじゃない一般的なお仕事の方々は日頃なかなかカメラを向けられることなんてないわけで。

ちょっと想像してみてほしいですが、例えば道端で「すいませんちょっとだけお話お伺いしても〜」と誰かに来られた時に、そこに聞き手の方がただ居るだけか横にカメラをドンと構えた人が一緒に居るかで身構え方って変わってくるじゃないですか。

変な意味じゃなくてやっぱり圧みたいなものは増すというか。
(人とかじゃなくてあくまで機具としての)

なのでそういうシチュエーションになった時に人によってはちょっと萎縮してしまったり変にプレッシャーになって、思ったように言葉が出てこなかったりあまりナチュラルに話せない場合もありそうな気もします。

今回、僕が単独で取材を受ける際は事前に「普段からそういう仕事なんで全然慣れてるんで大丈夫ですよ」とこちらから先にお伝えしてきた部分があるからいいんですが、これが家族となると話は変わってきます。

取材はおろかテレビカメラを向けられるなんて経験は流石にしたことがないわけで、今回の家族取材の話に至るまでには当然そんな気軽に「いいっすよ〜」みたいな感じではなく事前にちゃんと双方と身長に話し合いも重ねましたし(デリケートな部分でありますから)。

家族側からしても別に嫌々とかしぶしぶというわけでは決してないものの(本当に!)、だからといって「是非是非!」みたいな前のめりなわけでもない。

まあ当然多少の戸惑いみたいなものもあったかもしれませんが、それよりも「あなた(息子)のためになるなら」みたいな気持ちがしっかりと上回ったというところです(愛ですね!)。

とは言え、先ほど書いた話に戻りますがやっぱりカメラを向けられるっていう部分でどうしてもいろいろ萎縮したりしちゃうかもなぁっていう懸念はそれなりに僕の中ではあった部分で(スマホとかホームビデオのカメラとかと違ってテレビカメラって向けられた時の存在感すごいから)、まあそこはもう出たとこ勝負だなって感じで。

なのでだいたいはインタビュアーの方(記者やディレクター)と最初に多少のコミュニケーションをとった後、じゃあよろしくお願いしますって感じで取材が始まるわけですが、"助かった"という言い方はちょっと仰々しいかもですが今回有難かったのは、カメラマン(毛利さん)の方が記者の方(山崎さん)と同等率先してコミュニケーションをとってくださった部分。

それは取材前だけじゃなく合間合間もそうなんですが、取材対象とカメラマンという空気感じゃなくて人と人って感じで他愛もない話だったりご自身のご家族の話だったり、かなりライトで柔らかい雑談的な時間を多く取ってくださった。

それが仕事をするうえで意識的に心がけていることなのか天性の人柄なのかは分かりませんが(両方かもしれないし)。

当たり前ですがカメラマンの方はとにもかくにも撮るのが仕事で「いい絵」を逃さないという本分があるわけでして。

ですが今回、取材途中途中でもわざわざ一旦カメラを置いてそういうコミュニケーションの時間をたくさん取ってくださる部分があって、その時間っていうのは当然"絵"は撮れてないわけですから、本来のポジションとして直接的な成果には繋がらないわけで。

それは家族に限らず僕に対してもそうで、分かりやすく具体的な話をひとつ挙げると、例えば水汲みの時間の取材でも途中途中で「僕キャンプするんで同じタンク使ったことありますけどこれ本当に重いですよね」みたいな、本当に他愛もない(けど脈絡はあるような)会話を重ねてくださる。
※勝手に会話バラしてます毛利さんすいません

で、僕もそんな話を聞くと「いや!分かってくれますか!マジ重いっすよね!!」みたいな感じになるわけですが、その会話中はカメラを置いていたりする。

取材中の時間であるものの別に撮れ高とかこういう表情が欲しいとかそんなこと関係なく普通に人と人としての時間が流れるわけで、そういう時間が在ることで当然こちらも「カメラマン」として接するんではなく「毛利さん」として接する感覚になるわけで、だからこそ再びカメラを構えられても別もうカメラの存在あんまり関係ないみたいな。

カメラに向けてというより毛利さんに向けて喋ってる感覚になるわけで。
だからこそ映像に残る空気感も生まれると思います。

家族取材の日も最初にそういう空気感を作ってくださった部分があるからこそ、結果的にカメラが入ってるとか関係なくリアルな会話を無意識で繰り広げることになったんだろうなと、今これを書きながら改めて思います。

もちろんディレクターの山崎さんも務めてそういう空気作りをずっとしてくださったのはあってそこにも大変感謝しているわけですが、やはりカメラを構えている当人が空気をほぐしてくれるのはまた違う意味合いがあるなと思ったわけで。

些細なことかもしれないけど、このほんの些細なことが実はめちゃくちゃ大事だよな。取り分けメディア(カメラ)慣れしていない人なら尚の事な。

今回、家族にガッツリ取材が入るという経験の中で改めて感じたことです。

昔からずっと言ってることなんですが一人の「裏方フェチ・裏方リスペクト」人間としては、こういうあまり表には伝わりにくい裏方さんの隠れたファインプレーはちゃんと伝えておきたくなる性分でして(烏滸がましいですが)。


大前提として他の媒体の方がどうこうって話では全くもってないわけで、今年に入ってからたくさんのメディアの方々に取材をしていただいているわけですが、本当にどの媒体の方々にも誠実に丁寧に向き合っていただいていますし同等の感謝を抱いています。

単純に取材していただいた回数やそれに際して共にした時間の長さが積み重なる中で見えてきたり気付いた部分のお話ですので、その辺りは相対評価的な話ではないって前提で読んでもらえれば幸いです。

そんなわけでちょっとマニアックなところにフォーカスを当ててみました。
カメラだけに。
(そこそこうまいこと言ってると思いますけどなんか文句あります?)

重度の花粉症の方、共に頑張りましょう。

ではまた。



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