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五輪について~小林賢太郎が好きだった

オリンピックが盛り上がっている。(ように感じる)

僕はオリンピック否定派だが、いよいよ競技が始まって、盛り上がりを見せる中で、反対の声をあげるのは結構しんどい。

正直言ってスポーツは嫌いじゃない。選手やチームをたくさんの誰かとともに応援し、熱い思いや感動を共有出来る機会なんて、なかなかあるものではない。
まして自国開催となれば、身近で観れる可能性もある。それはそれは貴重な機会だと心から、思う。

連休明けの今日、職場の保育園の子どもたちが興奮しながら言った、「自転車(ロードレース)見たよ!」の声に、美しく感動的な経験が含まれている事は、否定しようもない。

本当に、本当のところは、僕もオリンピックを観たい気持ちもあるし、日本人選手の活躍を期待したり、応援したい気持ちもある。

だから、いやでも目に飛び込んでくる五輪のニュースには、心躍る気持ちに蓋をして抑えるような、複雑な思いを持ちながら、そっと閉じている現状だ。

まして僕は、件の辞任・解任となった小山田圭吾と、小林賢太郎のことが好きだった。
特に小林賢太郎は。

小林賢太郎のソロ公演のDVDを、高校生の時に買った。
一万円するそのDVDを高校生の金銭事情で購入するのは、非常にしんどかった。
でも、地元の蔦屋書店で、過剰にデザインされた装丁の現物を手に取って、「今これを買わなかったら一生後悔する」みたいな思いが湧き上がってきて、思い切ってそれをレジに持っていった。
当時、そのためにおやつとか、ジュースとか、どのくらい我慢しただろうか。もう思い出せないけど。

DVDは神的に面白かった。「この表現に、今触れられてよかった」って思った。
それからも、NHKで小林賢太郎テレビがあるたびに観たり、録画したり、時に見逃して悔しく思ったりした。
だからパラリンピックの演出担当になったと聞いた時は、飛び上がるほど嬉しかったのだ。当時。

でも、開会式は見ていない。

聞くところによると、ピクトグラムの表現が秀逸だったと。
その部分だけTwitterで20秒ほど切り取られた映像を見た。

「あぁ、小林賢太郎だな」と思った。
名前は無いけど、評価されて本当によかったね、って…
(※投稿の後、やはりそこは観るべきと思い全編鑑賞しました。悲しいまでに小林賢太郎だった。)

そのように複雑なごちゃ混ぜで、泣きたくなるような気持ちをも抱えながら、それでも五輪を肯定出来ないのは、それ以上に強い気持ちを持って五輪を否定したいからだ。

いくつか面白い記事があった。

【東京オリンピック開会式への怒りと絶望…ゲームへのリスペクトがない演出とそれをありがたがる人々が許しがたい】

https://s.gamespark.jp/article/2021/07/25/110634.amp.html?__twitter_impression=true.

ゲームファンの目線で、ゲームミュージックが使われた開会式、そしてこの状況で強行される五輪をどう捉えるか。
こんな風に語り、言語化できるようになりたいと思う記事であった。

『「オリンピックを楽しむ」という立場はあり得る。あり得るがそれも「反対」と同等(かそれ以上)に政治的な意味合いがある、という自覚をもった上で楽しんでほしい。』(記事より引用)


という言葉よ。
反対でも、賛成でもいいが、
それはいずれにしても政治的なんだ、と。
それだけ難しくて複雑な問題なのだ、自国でのオリンピック開催とは。

また、この記事。

【お笑いファンだった私は『笑う側』になりたかった…五輪辞任・解任ドミノが露わにした90年代の「不都合な真実」】

https://bunshun.jp/articles/amp/47362?page=1

お笑いファン目線で、今回の辞任劇を含む開会式を捉えた記事。

『音楽家が過去の犯罪的とも思えるいじめを公言したこと、演出家が人類史上類を見ない陰惨な事件を笑いのフレーズに用いたこと、それらは長い時間をかけて熟成し、彼らを「カリスマ」に持ち上げる一つの推力としてどこかしら作用してしまった事実。』(記事より引用)


小林賢太郎が好きだ、と胸を張って語った僕も、きっともしかしたら、そのお笑いやサブカル文化が発展する上で、どこか一端を担っていたかもしれない、と。

続く不祥事について、どこか傍観者であった自分を、一気に地続きの当事者にさせるような、秀逸な記事であった。

つまりこうだ。

自国で五輪が開催される以上、それが意識的であろうとなかろうと、また否定的であっても、肯定的であっても、主体的に関わる以上、その立場は政治的にならざるを得ない。

そして、今回世界から否定された日本の差別許容的カルチャーや、あるいは開催国としての日本のすべてのあり方について、僕たちは傍観者ではなく、当事者なんだ、と。

開催国に生きる当事者として、五輪をどう捉え、どう振る舞うのか。

僕はとても複雑な思いを持ちながらも、五輪を否定する立場を表明し続けたい。

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