ドーキンス「利己的な遺伝子」とその後

4月上旬のスクーリングを経て教授からリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」を進められて読んだ。その後、オンライン勉強会でその事について発表する機会があった為、今回はその勉強会の事も踏まえて文章を書く。

・リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」について
遺伝子は自己複製子であり、人間はそれらの生存機械である。という視点から繁殖、体の仕組み、攻撃行動などを読み解いたもの。個人的は遺伝子視点から考えた個体同士の行動戦略の解説よりも遺伝子視点から体はどう作られているのか、解説された文章が面白く思えた。自分の卵子と誰かの精子を人工授精させて、細胞が分裂していく姿をずっと顕微鏡で見ていたい!と本気で思った。

また、私達が作り出す文化というモノが遺伝子と同様に(もしくはそれ以上に)人々の記憶の中に自己複製子として受け継がれ生存していく事にも言及されていた。その文章に特段感動したわけでもないが、急に遺伝子から文化に文脈が変わったものだから、そこにはすごく驚いていた。とは言え、全ての学問や事柄は別の学問や事柄と繋がっており、完全に独立した事象は無いと言える事を考えると全く不思議なことではない。

遺伝子を中心に人間の体の作りや生物たちの行動について解説される中で、後世に自らの自己複製子を残していくために他の生物や細菌などに寄生する、される事で互いが共生する事例も挙げられた。

細々と様々な面白い点を挙げたが、結局はいかに著者の問題意識やそれが生まれた背景、彼が持つ世界観やビジョンにアクセス出来るかが重要なのだ。その地点に立てて初めて美味しい所を吸える。ちゅーっとね。何ページのどこに何が書いてあるなんて事はそれらにアクセスするための手段なのだ。それを忘れちゃあいけん、と最終章を読み進める中で改めて意識した。

最終章の中で言及されていた寄生する、される事で互いが共生する事例が新しい生命モデルを作り出す為の良いヒントになると感じた。地球温暖化や伝染病、地球による生物数調整システムの中で適応して生存する為にはもう人間の力だけではどうにもならない。

寄生による新形態やカスタム、と考えると真っ先にサイボーグやAIが浮かんだ。しかし、サイボーグやAIは結局は人間が生み出したモノだ。今、共生しべき相手は蟻とかカラスとかフナとかビワクンショウモなどの地球上に住む多くの生命体である。

・勉強会について
上記のように、とても楽しく読んだドーキンス「利己的な遺伝子」について発表した。その後、教授からのフィードバックがあり、改めて何を中心に、どの範囲で何をするのか(つまり、私が思う世界を構築するための手段)を考える為のヒントを頂いた。

そんな中で一番響いた言葉が「無とは一番豊かなこと」という言葉であった。改めて考えると、私が就活や研究をそっちのけでハマっているマスク作りも近所のおばちゃん達が長年使っていなかった古着をマスクにしていたり、とてもデザインに凝っていたりと、今まで見えていなかったものが可視化されること、可視化出来ることが面白いと感じたからだった、と思い出した。私達にとって無とは何もないのではなく、見えていないだけなのだ、と痛感させられた。

今まで演劇に対して見に来てくれる観客たちの要望や欲求に応えなくてはいけない、座組の人たちを引っ張らなくてはいけない、と人と人との関係性やそれに応える事にしんどさを感じていた。みんなと作品を作ることは面白い反面、責任だったり立場として遂行すべき事にいつも潰されそうで、身軽に色々試してみたくても皆の同意を得なきゃ・・・という強迫観念さえ生まれていた。最早従来の演劇という創作システムは私にとってしんどいものでしかなかった。

そこで私は演劇自体を一旦やめて写真やビデオという別媒体の作品作りについて模索していた。しかし、勉強会の教授の話を聞いてパフォーマンスや芝居という表現をあくまでも観客や座組などの集団有りきのモノだと自らが思い込んでいた事に気付いた。私は目指しているのは私という新しい生命モデルが生み出される世界を作ること。主体客体とか、観客とか関係性なんて本当はどうでもよかったのだ。

「自分の部屋でも、何もない場所でもそこにはなにかあるし、何でも出来る」

その事に気付けてすごく嬉しかった。勉強会中に嬉しくて泣きそうになった。

中心は私、誰もいない世界でパフォーマンスしたい。それが新しい生命モデルを作るための手段になればいい。5月のスクーリングまでにまた新しい作品を作ろうと思った。

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