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差異

ー物事には差異があって然るべきである。(2022-仁紫煙)

  「差異」とは、何であるか。今しがたパッと調べたところ、goo辞書には「他のものと異なる点。ものとものの違い。差。」とある。

  要は「ちがい」だ。

  「ひやむぎと素麺の差異はなんであるか」と聞かれれば「太さである」と答えればよいし、「仁紫煙と裂鬼の差異はなんであるか」と聞かれれば「多岐にわたるため答えかねる」と答えればよい。

  「強いて1つ挙げるなら?」とけむりおに研究者に怪しげな銃を突きつけられているのなら、「残虐性の程度」とでも答えておくのがよい。

  勿論、私が程度の低い側であることは言うまでもない。言うまでもないが念の為、書いておく。

  つまり何が言いたいかと言うと、世の中には様々な差異が、物事の関係の数だけ、ある。その中でもとりわけ仁紫煙が大切にしている差異をいくつかメモついでに話してやろうと。そういう訳である。

  賢明な仁紫煙ファンの方々ならそろそろ気付いただろうか。

  そう、ここまでは前置きである。

  曲で言うならばイントロが終わりかけ、前髪が目にかかったギターボーカルの男がようやっとAメロを歌い出そうと息を吸ったところである。ラップで言うならば、1verse目担当者が自身のリリックを披露する直前、丁度最後の「yo,」を言ったところである。オーケストラであれば指揮者が手を挙げ、管楽器奏者らが息を吸い込んだところであり、配信者であれば待機画面から配信画面のシーンに移動するためにクリックしたその瞬間であり、書き物であれば今から本題に入っちゃおうかなといったところであろう。

  そうこう言っているうちにギターボーカルが酸欠で苦しそうな顔をしているので、早急にAメロに入ることにしよう。

  さて、仁紫煙が重要視する差異・区別とは何か。箇条書きで並べてみよう。

(※あくまで個人の意見である)

・「分かろうとしたが分からない」ことと「分かろうとしない」こと
・「ラップ(または歌・楽器)が上手い」ことと「そのアーティストが好き」なこと
・「ラップ(または...)の上手さ」と「音楽性の高さ」
・「頭が良い」ことと「知識量が多い」こと
・「ファン」と「信者」
・「コカ・コーラ」と「コカ・コーラゼロ」
・「松屋」と「吉野家」

(文章が長くなるなぁという懸念をちょっと前から抱いているものの、まぁいっか!という気持ちが大きいため書き進める)

  まず、「分かろうとしたか分からない」ことと「分かろうとしない」ことについて。

  これは大抵仁紫煙が人間関係について考える時に至る考えである。
  読んで字の如くではあるが少し噛み砕いて話そう。人間(人外は知らない)は、自身以外の他者のことを100%理解することは出来ない。まずここから言えることは、悩んでいる人に対して「その気持ち分かるよ」だとか「私はあなたのこと分かってるよ」なんて軽々しく言うな、ということである。これは前提として提示しておく。

  問題はこの前提の上で起こる。「他者のことを完全に理解することが出来ない」のであれば、端から「理解しようとすること自体意味が無い」のではないだろうか、と。
  仁紫煙に言わせればこれはNOであるというだけの話である。寧ろ、他者を完全には理解出来ないと知っているからこそ、理解しようとする姿勢が何より重要であると言える。

  要は、「他者のことを理解しようとすることは大切であるが、自分に他者を理解出来るだとかいう驕りを持つな」とでも言おうか。この意識はとても大切である。分かりづらいかとは思うが、人と関わって生きる上で割と利便性が高い考え方であるのでオススメしておく。

(長いな)

  次に、「ラップ(または...)が上手い」ことと「そのアーティストが好き」なこと。

 これは簡単ではないだろうか。要は、「私はあのラッパーが嫌いです。どうせラップも下手でしょ。」であるとか、「あのバンドはめちゃくちゃ技術が高いらしい!じゃあ好きになる!」みたいな。それは違うよねってだけの話。

  「アーティストとしては嫌いだけど、ラップはマジで上手いな」とか、「歌は下手だけど、なんか好き」みたいなことは何もおかしくないと。
  上手いから好きになった方が良い訳でもないし、下手だから好きになっちゃいけない訳でもない。   
  好き嫌いは自由。ただ、「お前の趣向」と「対象の価値(今の場合アーティストの技術)」に関連性はない。それだけのお話。

(こんな長いの誰が読むんや)

  関連して、「ラップ(または...)の上手さ」と「音楽性の高さ」。

  これは少し分かりづらい話にはなる。仁紫煙ぐらいしか考えてないかもな程度のお話。
  言い換えれば、「ラップ(または...)が上手い」ことと「音楽として優れている」ことは違うのかもね、と。

  例えば、仁紫煙が自分で「びみょ…かもな…」と思っている自曲の話とかをすると、よく優しい方々が「いや、仁紫煙はラップ上手いよ」的なことを言ってくれたりする訳です(ありがたいですね)。しかし、なんか違うんだよなァ感がある。
  また、Recした曲を翌朝に聞き返して、「んぁ~~~!!!ラップはうめぇ~!!けどビミョ~!!!」みたいなことがある。

  そういったことが何度かあった結果として、数々のボツ曲と共に、「ラップの上手さ」と「音楽としての上手さ」は別なのかもなという知見を得るに至ったということである。

  更に分かりやすく言うのであれば、「楽器が上手くてもさ!センスなかったらさ!曲はさ!ビミョになるくね!」といった感じであろう。そんなこと言うな。

(長い…よね?多分)

  次に、「頭が良い」ことと「知識量が多い」こと。

  これも考え方自体は簡単ではあるが、しっかり意識しておきたいと常々思っていることである。
  まず、仁紫煙が思う「頭が良い」とはどういった状態かを説明せねばなるまい。

  勿体ぶる理由もないので簡潔に述べれば、「考える力がある」ことだと考えている。応用力、思慮深さ、一面的でない思考、問題解決力といったものを持っている人は、頭が良いといって差し障りないだろう。

  具体的な話をすれば、読んだ本をある程度要約して人に話したり、物事の説明やエピソードトークを上手に話したり、経験したことのない事象を理解するのに知っている知識からある程度の推測を行えたり、そういったことが出来る人は頭が良いように感じる。

  だからどうしたと厳しい方々は思われるだろう。別に「俺は頭がいいよ!」と思っている方々に自身を省みて欲しいといったようなことではない。寧ろ逆である。

  よく、「俺(私)は馬鹿だ」といった劣等感にも似た自認をしている人を見かける。様々な人と話していると、「知識量が無いこと=馬鹿」と考えている人ほどそういうレッテル貼りをしていることが多い気がする。
  何故自身が頭が悪いと思うのか?と彼らに問うと、例えば都道府県を殆ど覚えていない、総理大臣の名前も分からない、漢字が全然読めないなど、知識量の少なさを理由に判断を下している。
  そういった人と話していると、会話はスムーズで理解しやすいことも少なくない。そういう時に、「この人は知識量が少ないだけで、頭自体は良いんだろうな」と感じる。

  謙虚が故に「自分は頭が悪い」と言っているのであればまぁ好きにすればいいとは思うが、それが呪縛となっている人にとってこの考え方が生きる上でのヒントになれば幸いである。
  それでも気になるようなら、知識量を増やせば良い。知識量が多ければ多いほど、とりあえずあなたを馬鹿と思う人は分かりやすく減るであろうから。

(長いなぁ、嗚呼、長い)

 「ファン」と「信者」について。

  これは至極簡単。仁紫煙がよく言うことである。「ファンであれ、信者であるな」と。

  まずはそれぞれの仁紫煙の中での定義づけをしておこう。
  「ファン」とは、まぁ、ファンである。例えば、アーティストで考えよう。あるアーティストの曲が好きで、ライブにも行った(または行きたい)し、カラオケでもよく歌っているし、友達にオススメしたい。これはファンであろうし、異論はない。
  「信者」はどうか。大枠は一緒である。そのアーティストが好きで好きで仕方ない。では何処に差異があるか。それは「狂信」あるいは「妄信」とでも言える状態にあるかどうかである。

  例えば、アーティストの新曲が聞き手にとって微妙だったとしよう。その時、「今回微妙だったな、でもこのアーティストは変わらず好きだよ」となるのがファンであり、「今回の曲もこのアーティストの曲だから良いものだ!」となるのが信者である。

  「曲が良いからアーティストが好き」なのか、「好きなアーティストの曲だから良い」のか、と言えば分かりやすいか。後者は違うんじゃないの、そういう個人的な意見である。

  また、妄信的な信者の特徴として、第三者が「今回の曲、個人的にはあんまりかも」と言った際に強く反発するという習性もある。アーティストを信奉するあまり個々人の価値観にまで口を出すことが行き過ぎていることは、容易に理解できるだろう。

  再度言おう。「ファンであれ、信者であるな」。

(長すぎてナーガ・レイになったわね)

 「コカ・コーラ」と「コカ・コーラゼロ」に関しては、後味において特に差異が際立つ。私はコカ・コーラが好きである。ゼロは黒を基調としたパッケージであるため、少しばかりスタイリッシュに見えなくもない。間違えて買うとコレジャナイ感がすごい。

  「松屋」と「吉野家」に関しては、メニューが違う。松屋はメニューにハンバーグがあったり、よりファミリーレストランに近い気がする。牛丼はどちらも美味しい。私の家からの距離を考慮すると吉野家の方が利便性は高いが、これは個々人の家と牛丼チェーン店の位置の相関関係によって異なるため、一概には言えない。

(長かったと言わざるを得ない)


  ここまで読んだ人はいるのだろうか。ここまで読まなかった人は、松屋と吉野家の違いにこれからも悩むのであろう。すき家信者であればこれを読まずとも生きていけるだろう。

  なに?長すぎて内容を忘れた?
  頭が良い君なら簡単な要約ぐらい出来るだろう。是非知人に聞かせてやってほしい。

  次はなに?よく分からなかった?
  言っただろう、他者の考えが全て理解出来る訳が無い。8割分かれば上等だ。

  まだあるのか。8割どころか全然分からなかった、だって?
  それは君の努力不足か私の文章力不足だ。私は前者を推す。他者を理解しようとすることにこそ意味があるのだ。一から読み直すといい。

  もしくは、各種SNSで拡散するなりして他の人に要約してもらうのはどうだろうか。うん、それがいい。色んな人にこの記事のリンクを送ろう。ツイートしてもいいな。よしよし。

 さよなら再見、またきてにしぇん。Vtuber兼VRapper兼長文書き書きマン、仁紫煙でした。

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