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億劫さとその後の快楽とを天秤にかけ、なんとか後者を勝たせてコーヒーを淹れる。冷蔵庫から京都で買ってきたメロンパンを取り出して食べる。炎天下を数時間持ち運ばれ、その後ひと晩冷やされていたとは思えないほどの香りと質感。続けて食べた、別の店で買ったシュガーバターメープルパンもまた素晴らしかった。
金曜夜からスタートした2泊3日の旅行の間に口にしたもの。焼きとり、クイニーアマン、紅茶、コーヒー、とんかつ、日本料理店での諸々、パン、ラーメン。手頃なものもそうでないものも、その全てがいちいちハッとせずにはいられないほど美味しくて、思い返しているとなんだか怖ろしいような気さえしてくる。自分の普段の食事との差。この差を埋めるにはどうすればよいのか、その方法が今の自分には全然わからない。手がかりが極端に乏しい。わからなさをここまで痛感するのは久しぶりのことで、だからこそ強く心を惹かれる。
私はずっと京都が好きだったが、4年半ぶりに訪れた京都は以前とはかなり違って見えた。かつての愛おしさの大部分は、「大学時代を(奈良県からの通学とはいえ多少なりとも)過ごした街」というノスタルジーで構成されていたのだと思う。改めて街を歩きまわり、服や靴を見ながら店員さんと話し、食事をし、美しい本棚を眺めて過ごす時間はなんだか海外旅行の時に流れるそれと似ていた。街を往けば往くほどに、一時期は自分のかなり近くにあったはずの場所が今は少し遠くなってしまったこと、そして、その場所の持つ素晴らしさに気づかないまま過ごしてきた年月が、なんだか惜しくて仕方がなかった。ひょっとしたら、私は時折定まらない表情で京都の道を歩いていたかもしれない。
こんな風に、帰ってきてからも思いを馳せていられるような旅行が私には必要だったらしい。8月に入ってから家の中でばかり過ごしていたせいか、お盆が明けたあたりからどんどん元気を失いつつあった。それが随分と良くなった。持ち直せた。明日からは、9月が始まる。