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3/11(閉鎖的コミュニティの話題から考えたことなど)

昨日あたりから、noteで販売されている『つけびの村』のルポが主にTwitterで随分と話題になっている。一年に一度くらい、ウィキペディアで日本の猟奇事件の項を熟読してしまう者としては気になって仕方がないのだが、でも、読めていない。というか、怖すぎて読めない。

わたしの育った場所はわかりやすく田舎らしい田舎で、一般的とは言いがたい感覚の持ち主だった(と大人になった今こそそうおもう、妙な選民思想?みたいなものではなく純然たる事実として)わたしの両親はとても生きづらそうにしていた。なんなら、その環境がために不仲になってしまったのだとさえおもう。田舎のコミュニティに必死でなじもうとしてなじめず常に傷ついていた父と、田舎を否定しながらもその実最もそこから離れられない人であった母と。

場所を移せば(移すことができれば)ちがった展開があっただろうに、そうも行かないのが人生。などと軽くまとめてしまわずにはいられないような生々しいものを見て育ってしまったな、という実感がわたしにはある。それがゆえに、かのルポを読みたくても読めない。あと数年すれば読めるようになるだろうか。

わたしがいまだに(特に閉鎖的になりそうな気配のある)コミュニティに属することを半ば忌避しているのにはこういう背景がある。ゆえに、ここに来たばかりの頃、他人から日本人の友人を作るように助言された際は、今おもえばじぶんでもちょっと笑ってしまいそうなほど激怒してしまった。何事にも王道セオリーというものは存在するけれど、それを他人に強いてはいけない。そのことを身をもって学んだ出来事だった。

日本にいた頃は違和感をおぼえたら環境を変えることを頻繁に行っていたから、ここまで嫌なおもいをすることはほとんどなかったのだ。そういう意味では、じぶんの想像力の限界もこれまで以上に強く識ることになった。経験からしか学べないじぶんは残念でもあるけれど、それもまたわたしの器。

そんなことを考えつつ、音楽を聴き、夕飯の支度。今日はトマトソースの煮込みハンバーグをメインにした。早く帰ってこい、夫。