18年前「武器よさらば」が遺したもの

オンラインゲームの楽しさを一皮むけば色々なものが見えてくる。
他者との関わりや時間の積み重ね、成功・失敗体験。
私自身を省みても、決して綺麗なものだけではなかったように感じる。

そのように思い馳せるのも、最近とある話を思い出すからだ。
自らを武器商人と名乗り、ゲーム内で武器を売る人物の話。
「武器よさらば」とは、そんな武器商人と縁があった人物の回顧録だ。
私がまだゲームすら知らないくらい幼かった頃の話である。

PSOという00年代のオンラインゲーム。
そのBBSに2001年に書き込まれた、極めて希少価値のある武器をタダ同然の価格で売るというプレイヤーとのやりとりが書かれている。

"私、このゲームが大好きなんです"

武器商人はそう前置きした上で投稿者に思いを吐露する。

"…だけど…私のしてきたことは、その、"
"アイテムを大事だと思う人達を冒涜する行為だと気づいたんです。"


PSOで武器の複製事件が起きた時、初めて武器商人は自らを省みた。
水泡に帰すこととなった、希少なアイテムの収集に費やした時間のこと。
自らの行いが悪人の成すことと変わらなかったということ。

プレイヤーが等しく"冒険者"という肩書きを持つこの世界では、
全ての人が「持たざる者」としてスタートする。
そして現実と同じく、みな自分はこうありたいという自己実現欲求を持つ。
レアなアイテムが欲しい、強い敵に勝ちたい、仲間を見つけたい。
その過程や結果に、楽しいという気持ちは根ざすものだ。

ならば、その楽しさが瞬く間に手に入ったとしたら?
楽しいと思う気持ちは、たちまちに熱を失ってしまうように思う。

"私、多分取り戻したかったんです。最初の頃の感動…"

武器商人は愛するゲームが変わってしまった事を寂しがっていた。
希少なアイテムを手に入れるために時間を費やし奔走する熱よりも、
昔のように一緒に冒険する仲間や、繋がりを求めていた。

"自力だから、いつになるかわからないけど…やっぱり返したい"

そしてついに、最後の客によってその願いが実を結んだのだ。

もしかしたらこの18年前の投稿は嘘っぱちかもしれないし、
綺麗ごととして脚色されたフィクションなのかもしれない。
ただ、この名前を付けなければ知覚できないような繋がることの楽しさは、10数年たった今でも存在するように思う。

私たちの身の回りには常に他者という存在が在り続ける。
だれかが居ないと成り立たないゲームだからこそ関わりは続いていく。
このnoteを読むどこかの冒険者が、この先自分にとってかけがえのない体験をつくっていけることを願う。