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花譜2nd ONE-MAN LIVE「不可解弐Q2」で歌う「可不」の存在感

この記事は、 大学ボカロ部 Advent Calendar 2021(https://adventar.org/calendars/6596)の13日目の記事です。

 今年3月に開催されたバーチャルアーティスト「花譜」のオンラインライブのとある演目について、書くだけ書いて頃合いを見失ってしまったとっくに旬を逃した記事なのですが、ギリギリ今年の話題、ということで加筆して公開する事にしました。

不埒な喝采 - ポリスピカデリー feat. KAFU

 今年2月に公開されたポリスピカデリーさんの楽曲に「不埒な喝采」という作品があります。この曲を歌う「可不」はバーチャルアーティスト「花譜」の声を元に作られたキャラクターです。

花譜2nd ONE-MAN LIVE「不可解弐Q2」

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 今年3月、花譜の無料配信ライブ「不可解弐Q2」が開催されました。バーチャルライブハウス「PANDORA」のステージからフルCGで2時間生放送され、YouTubeの同時接続数4万人、Twitter世界トレンド一位と大盛況の様相。そのライブの演目の一つとして演奏されたのが、ご紹介した「不埒な喝采」の花譜&可不カバーです。ステージ上に「可不」が登場し、花譜と共にデュエットで一曲歌い上げました。

※撮影SNS投稿可のイベントでした

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↓↓こちらは後に投稿されたデュエットver.音源。演奏されたのと同様のもの(のはず)。

 この共演、「歌声合成キャラクター」と「中の人」の共演という意味での物珍しさは勿論のこと、それだけでは説明できない、何か異質な「可不」の存在感、実在感を感じ取ることのできる内容だったのですが、その要因を紐解きたいというのがこの記事の内容になります。

人間とバーチャルキャラクターの共演

 ライブイベントにおける「バーチャルキャラクター」と「生身の演者」の共演はこれまでも無数に行われていて、その中では当然、両者の間に、視聴者の目や耳に届く情報として「存在の質」とも言うべき差がありました。
 身も蓋もない言い方をしてしまえば、ポリゴンで構成された素体にリギングを施して動かす「バーチャルキャラクター」の存在と、鑑賞者と同じ、血の通った「生身の演者」の存在への認知は異なるものであって、「生身の演者」に実在感を感じるのであれば、「バーチャルキャラクター」は鑑賞者とは別次元の異質なもの、非実在のものと無意識下で感じてしまいます。仰々しい書き方をしましたが当たり前の話ですね。
 あくまで私の主観的なお話になりますが、過去の事例では両者の差はそれはそれでいち表現として成立していたり、受け手が慣れたりする事はあっても、それそのものが消えることはなかった様に思います。

「可不」特有の異質な存在感

 「バーチャルキャラクター」と「演者」という観点で今回のライブを見てみましょう。「不埒な喝采」では「キャラクター(可不)」と「演者(花譜)」の視覚的な差は取り払われていて、2人は全く同一次元上の、言わば同質な存在でした。
 CGなんだから当然だろう、と思われるかもしれませんが、2人の関係性が「歌声合成キャラクター」と「その中の人」という、本来同質になり得ないもの同士であることを考えればその特異性をより強く感じていただけるのではないでしょうか。「中の人」は本来私たち視聴者と同質であるべき存在なのです。「中の人=生身の演者」が居るべき位置に「花譜」というバーチャルキャラクターが置かれ、「キャラクター」のいる次元に「演者」が一歩歩み寄ったことで、「演者」と「キャラクター」の境界が溶け合った瞬間とも言えます。(とすると、異質なのは花譜の方なのかもしれません。)

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 さて、ここで違和感が発生します。「可不」と「花譜」は同質の存在として知覚されているのに、一方には「魂」が存在し、一方には「魂」が存在しません。「花譜」の一挙手一投足に明確な意思があることを知っているからこそ、「じゃあ視線を交わしながら歌っている隣の「可不」は何なんだ」という事になるのです。私はここに「可不」の異質な存在感の正体があるのではないかと考えます。鑑賞者からは2人の存在が同質で、昨今一般的なvtuberのライブの様に見えているのに、片方には所謂”魂”が存在しない状況。メタ的だけれど隣に立つ「花譜」に魂がある事を知っているからこそ、「花譜」と同質である筈の「可不」にはそれがないという事実が際立って、汎用AIの様な、空っぽなのに意思を持つ、その上ドッペルゲンガーの様な特性まで併せ持った不思議な存在に思えたのです。

溶け合う「存在の境界」

 「可不」の存在感を際立たせた要因はおそらくこれだけではありません。「不可解弐Q2」はフルCGのオンラインライブ、と紹介しましたが、画作りがリアル志向で少し見ただけではそれと分からない程現実のライブ空間に近いものでした。

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 これによって、視聴者のいる空間とライブ空間の「存在の質」が溶け合い、また「リアルな空間にリアリティを持って存在しているのだから視聴者と同じリアルな存在である」という多少の錯覚、認知の歪み、その上先述した「歌声合成キャラの中の人は視聴者と同質である」という先入観の様なものが複雑に働きかけた結果、視聴者と花譜、可不の「存在の質」も溶け合ってしまったのではないかと考えます。飛躍気味かもしれませんが、視聴者と同じ魂を持った「花譜」が間に立ったことで、「可不」⇄「花譜」⇄「視聴者」の「存在の質」の認知の境界が曖昧にボケた結果、「可不」の、魂が存在しない”異質な存在感”が際立ったのではというのが今回の結論です。

あとがき

 昔から変わらず空想の世界と現実世界の融合、というテーマには興味が尽きず、その中でも最近特に心動かされ、自分用に書き留めておきたい、と慣れないながらも残していた下書きを公開してみた記事でした。最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事は、 大学ボカロ部 Advent Calendar 2021(https://adventar.org/calendars/6596)の13日目の記事です。







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