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【Venus of TOKYO】3月3日、山藤恵里さんの未来から来た女を一人でフル追いした記録【アーカイブ】

※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。
※もう終演した公演ですが、一応ネタバレがありますのでご注意ください。

3月3日、ひなまつり、3月に入ってはじめての、そして「魔王富豪」EYAMAXさんが離脱してはじめての「情熱の木曜日」のVOIDは、いつにも増して濃厚な空気を孕んでいた。

オープニング、魔王の魂が乗り移った荒井富豪のソロ(「ドルフィン(飛びシャチ)」というのでしょうか)、1か月前の彼のようにひなあられを頭から浴びて嬉しそうにする荒井富豪(ジュルネのみ)。
白服に戻ってはじめてのご出演、菅野鑑定士もバチバチに気合いが入っているように見えた。ただでさえ長い手足が3割増しだった。
普段はいない熊シェフの存在も相まって、オープニングから新しい化学反応が加速度的に起こっているように見えた。


前日の衝撃のオンラインのこともあり、ソワレで山藤恵里さんの未来から来た女(以下「未来さん」)を追おうと思っていた。
しかし、ジュルネ、チュートリアル鑑定士部屋まで来たところで事情が変わってしまった。

グループAの最後尾を歩いていた自分の後ろから、未来さんがスッとロッカー部屋に入ってきた。
グループAになったのはVOID人生初(ようやく…)で、彼女がチュートリアルでこの部分を見ていることを知らなかった。
視界の両端に2人を収めながら、未来さんがどういう反応をするのだろうと見ていた。
彼女は微動だにせず目の前の部屋の景色を見つめている。伏せ気味の顔がつば広のハットに隠れて表情までは伺えない。だが鑑定士の顔をまともに見たとき、そして彼の感情が高まり、それが身体で表現されるとき、わずかに、ほんのわずかに、首をかしげる仕草をする。

過去に来て間もない、記憶と感情を失った彼女が、何かに反応しているのだ。
それはまさに「反応」という程度の小さな綻びだったのだけれども、彼女にとっては不思議で、不思議という感覚が芽生えたこともまた、一つの小さな光源のようなものとして彼女の虚無の中に灯されたのではないか。

間近で見ていないと気が付かないほどの繊細さを帯びた彼女の「反応」を見てしまったとき、どうしようもなく今このVOIDで未来さんを追わなければならなくなった。

次に彼女を見かけたのはオークション前、ピアノの前に立って不協和音を断続的に鳴らす姿。
まだ思い出せない、思い出せないけれど何か引っかかる。この音色と、この白黒の景色。

未来にピアノはあるのだろうか。おそらく無いのではないだろうか。ピアノどころか音楽自体が無いかもしれない。
感情を失った人類に、音楽は、芸術は、きっと無用の長物だろう。何らかの役割のもとにメロディや絵という要素が残っていたとしても、それはもう芸術ではないのだろう。

そうだとすれば、未来さんにとってかつて見慣れていたはずの、ピアノの前に座ったとき視界いっぱいに広がる白黒の風景というのは、ピアノという概念を離れて彼女の中に残り続けていたかもしれない。
あの白黒の部屋、色んな意味があるかもしれないし無いのかもしれない白黒の部屋。
一面の白黒と、バラバラになった五線譜に飛沫、断絶する模様、五感の象徴、奥底にある小さなハート。
あの部屋はもしかしたら感情を失った未来さんの、心象風景なのではないだろうか、とはじめて思い当たった。

その片隅に、装置や基盤を思わせる無機質な模様が埋め込まれている。
それは医師が施したところのものでもあるだろうし、かつての鑑定士の、あの一言であるのかもしれない。


さて、オークション中も心は会場最後方、ひっそりと座る未来さんに奪われていた。
グループAの一般だったので、その姿は目の前の無表情な医師越しに見えるのだ。前日のオンラインを引きずっている人間にはそれもまた恐ろしい光景であった。

VOID内を彷徨うように歩く未来さんは、VOID内で3回だけ、はっきり能動的な行動をとる。2回は記憶がほぼ戻った後。少女に林檎を渡すとき(思うところが大量にあり、後述)と、その後にピアノに向かい弾き始めるとき。
残りの1回は、オークションで「真実を見通すヴィーナスの眼」に入札するとき。
この1回だけが、未だ記憶や感情の戻らない段階で彼女自ら取った能動的な行動だ。

なぜ彼女はヴィーナスの眼を、落札しようとするのか。
しかも5万VOIDと9万VOIDあたりで、2回も手を挙げていた(たぶん)。

山藤さんの未来さんを見ているとよくわかる。「知りたい」という気持ちだ。
チュートリアル鑑定士部屋の「不思議」という光源から、今や「知りたい」という気持ちが生まれている。なぜ自分はあの人物に反応したのか。あの音の鳴る白黒の装置は何なのか、見覚えがあるような気がする。その理由を知りたい。
真実というものがあるのかどうかもまだわからない中で、真実を見通す眼というものがあるのなら、それを使ってみたい。そう思って、思わず手を挙げたのではないだろうか。
鑑定士がその手をーーしかも挙げていたのは左腕なのだーーしっかり見届け、カウントしていることにも言い知れぬ切なさがある。

自由時間に入り、1階へ下りた未来さんは仕立屋を覗くのではなく、入口方面へ向かう。
壁のスポットに映し出される美しい影。それを不思議そうになぞる。気が付くとそれを見ている招待客は自分しかいない。張り詰める。それを察知したかのようにこちらを見る。見られていたことに驚いたような素振りを見せ、足早に去る。
階段でも時折振り返り、追われていることに気が付くと逃げるように足を早める。追っているのが申し訳なくなる。

このあたりから、「演者を追う」というイマーシブシアターのメタ文法、「演者と客」との暗黙の合意を完全に超越した体験が始まる。VOID内を彷徨う未来から来た女と、なぜか気になってそれを追う一人の招待客。


前半の未来さんは、ひたすらに自分と対話している。自分の中に芽生えた「不思議」「知りたい」という気持ち、鑑定士やピアノへの個々の反応が徐々に統合されて鏡部屋でのある演技につながり、「自分はいったい何者なのか」という問いとして膨らんでいく。

シェフのソロダンスシーンではそれを重重に感じて、込み上げる感情を抑えられない。
断続的な不協和音から、曲を弾けるまでに膨れ上がった綻び。熊シェフの描き出す圧倒的な苦悩とシンクロして、「自分とは何か」「何が真実なのか」「どうすればよいのか」、様々な葛藤がぶつかり合う。
未来さんの弾くあの曲は、あそこで図らずも同調したあの2人のための、そういう曲なのではないか。
何と美しく苦しい音楽だろう。


まっさらな「虚無」の状態から、不思議、知りたい、という綻びが芽生え、記憶が戻り始めるとともに、彼女の動きや表情も少しずつ少しずつ色付いていく。その経過がありありとわかる。本当にすごい。
後半の未来さんは、「自分はいったい何者なのか」という問いに引き続き向き合いつつも、さらに自分と同じく感情を持たない存在を強く意識するようになる。
2つの道が交差する瞬間が、林檎を少女に手渡すという行動として表れる。

が、それについて書く前に、トルコ行進曲を弾き終えた未来さんが階段を下りていったときのことについて書かなければならない。

前半で散々足早に逃げられ拒絶されていたこともあって、少し距離をとって控えめに後を追っていた。
階段の途中でこちらを振り返る未来さん。また逃げられる、性懲りも無く追いかけてごめんなさい……と思う間もなく、すっとこちらに近づいてくる。
基本的に動きが本当に怖い。この世のものではない。もしくは未来から来たとしか思えない。
だから怯えて立ちすくんでいると、至近距離でこう訊いている。

「あなたは、私のことを、知っているか?」

さあ、と首を傾げようかとも思った。
チュートリアルで盗賊が部屋から出ていったのを目撃したときや、写真家に「この写真に写っている女、盗賊なんだけど知ってる?」と訊かれたときのように。
でもそうできなかった。メタに動けなかった。

知っている。私はあなたのことを知っている。
何度もこの場所で見ている。会っている。
昨日も画面越しにあなたのことを見た。昨日のあなたのことを。あなたの選択と、震えながらとった行動を見ていた。

この瞬間に至るまでの「VOID内を彷徨う未来から来た女と、なぜか気になってそれを追う一人の招待客」が紡いだ時間、徹底的に作り込まれた世界観、イマーシブシアターという形式、そして何より「ループ」という設定こそが、あの自分の自然な頷き、深い肯定を導いた。
「あなたの役が昨日も演じられていたのを見ていた」のではなく、「昨日のあなたを見ていた」のだ。役ではなくあなたを知っているのだ。だから頷くことができた。
自分が自然とそうしたことに、半ば没入状態のまま衝撃を受けた。

未来さんは目の前の人間が自分を知っていると頷いたことに驚きもう一度訊き返す。再び強く頷くと、もうすべて悟っているような顔で、マスクの下の唇に人差し指を当てた。テーブルの上の像と同じポーズ。
とても美しかった。


前半の山場がシェフダンスだったとすれば、後半の山場は椅子ダンス。

贋作家が去って写真家が加わった後、最後の全員がシンクロする手話のような(本当に手話なのかもしれない)振りを見ると、なぜかいつも泣いてしまう。
自分にとってOPとED以外では一番涙腺を刺激されるシーンみたい。
その理由はまだうまく言語化できていないけれど、あれは贋作家を必要としない、少女自身のダンスだからだと思う。未来さんがそれに触発されて、そして写真家が、あのVOIDで自分の欲望のみに駆動されていない唯一の存在である(ように思える)他ならぬ写真家が、2人に寄り添っているように見えるからだと思う。
その構造全体と、ふいに全員の動きが合わさって何かを訴えかけるような振りが放たれる光景が、あまりに美しい。

未来さんの視点からそのダンスを見ることになった昨日は、彼女が少女に触発されて自然と動き出す様子がよくわかった。
少女に興味を持ち、気にかけて観察する中で、逆に少女から密やかに放たれる叫び(cf. 肖像画部屋)を感じ取り、共鳴する。
未来さんの外側からやってくる力によって身体を動かされているような感じ。
そして最後にはシンクロする。

これまで、未来さんは最後の最後まで迷ったり漂ったりしていて、自分の行動にまだ疑問を持った状態で、それでも林檎を少女に与えたのだと思っていた。

けれども昨日の未来さんを見ていたら、あのシンクロするダンスの瞬間には心を決めていたように見えた。あそこからは、彼女の内側からやってくる確固とした力で動いていた。

冷凍室では、半ば予想していたかのように「ああ、やはり」とゆっくり悟るような表情を浮かべる未来さん。そこではもう、目は合わない。自分を取り戻した彼女は、その先を見ていた。

記憶と感情を取り戻した未来さんが抱いた感情とは、何だろう。
喜び、悲しみ、戸惑い、愛情、いろいろ考えられるし正解なんていうものはないけれど、自分は「静かな怒り」だと思う。
これにはそうであって欲しいという願望も多分に含まれている。

あの冷凍室で、おそらく医師が自分に行ったことを理解しただろう。装置のことだけでなく、感情を奪う細菌や、医師の魂胆も薄々わかっていたのかもしれない。
静かではあれ、彼女の内側に燃えた怒りを我々には知ることができない。
3/2オンラインエンディングの行動に思いを致してはじめて、その大きさを推し量ることができるのみ。

ただ、医師だけではない。
鑑定士にも思うところがあったはずだと、自分は想像する。あのハッピーエンディングがあったとしてもだ。物事はいつだって0か100ではないから。
すべての発端となった鑑定士のあの発言と、その後の「僕が治すから」という言葉。その結果がこれだ。
未来さんの独白をはじめて見た時から、この言葉に違和感を持っていた。
これは個人的な感覚かもしれないが、一般論として男が女を守る、というような価値観はとても前時代的なものだと思っている。
そして未だ社会に偏って存在する構造をフィクションがあえて強化するならば、そこにはそれなりの理由が必要だと思っている(だから鬼滅の刃も「兄が妹を守る」という固定的な価値観が理由なく出てきたところで観るのをやめてしまった。この文脈では流れ弾すぎるが)。
ただでさえそうなのに、「僕が治すから」は妙に無責任というか、有り体に言えば雑だなと思っていた。
あれほどすべてに緻密なDAZZLEがそんなことをするだろうか?いや、しないだろう。この発言は鑑定士の一側面を描き出すための意図的なものと理解したい。

このあたりが、全体を通して比較的光タイプに属するように見える鑑定士の、闇の部分なのではないかと解釈している。たとえが適切かわからないが、『風立ちぬ』で言えば堀越二郎的な闇。
そして菅野鑑定士は特に、この部分を織り込み済みで演っているように見える。3月に入ってさらに激しくそれを表出させているように見える。

決して鑑定士を貶める意図はなく、むしろVOIDの一員に相応しい人間的な一面で、未来さんの視点から見るとそれがよりわかりやすいのではないか、という話(というか妄想)。

話が鑑定士に流れ過ぎてしまったが、
自らの意思に関わらず勝手に治すと言われ、勝手に感情を奪われたことに対する静かな怒り、それが未来さんに去来した最初の感情だとすれば、次に思うのは、奴隷の少女のことではないだろうか。

自分と同じように感情を奪われた少女。写し鏡のように、自分から感情を奪ったものへの怒りは、少女に対して同じことをしたものへの怒りに重ね合わせられる。
感情を奪われた者が、感情を奪ったものに対してできる最大の抵抗は何か。
それは、できることならば感情を取り戻しその感情でもって、とりわけ怒りでもって、相手を、世界を、撃つこと。その上で、あらゆる種類の感情によって力強く生きること。

だから彼女は林檎を、すなわち感情の塊を、少女に手渡すという選択をした。少女が感情に手と手を携えて、強く生きてゆけるように。これからの自分と同じように。

そこから少女とのあのシンクロダンスを再び振り返るとき、感情のない2人が感情を出さずに踊るあの振りを思い出すだけで、胸が熱くなるような力強さを感じる。
彼女たちは、もはや守られ治されるだけの存在ではない。感情と、それを支える芸術とを糧にして自分の足で生きていくだろう。

これは彼女たちの、誰との間の物語でもない、彼女たち自身の物語だ。
山藤さんの未来から来た女と共に90分間VOIDを生きて、そう思った。
没入の深度の真骨頂を味わった思いで、2月20日とはまた違った物凄い体験でした。

(2022年3月4日投稿 元記事@ふせったー

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