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【泊まれる演劇】雨色の思い出の欠片【アーカイブ】

※ふせったーに投稿した過去記事を、アーカイブとしてnoteに投稿しています。


泊まれる演劇 『雨と花束』に参加した夜の断片的な思い出と、作品を貫いて感じられた「存在の肯定」。誰もが意味を免れ、「物語のための犠牲者」となることなく等しく尊重され、慈しまれ、存在を肯定されるということ。

ある日郵便受けに入っていた、一通の手紙。
花の閉じ込められた、透き通った封蝋。
開いてみると、親しみのある、でも少しだけ突き放したような、手書きの文字が並んでいた。

お久しぶりです、お元気ですか。
とその文字は言っていた。
貴方は私のことを、もうすっかり忘れてしまっているかもしれないけれど、と。
来る雨季の日、貴方と過ごした思い出のこの場所で、小さな晩餐会を開きます、と。

それは明確に自分に宛てられた手紙だった。
でも差出人の名前には、聞き覚えがなかった。

自分に宛てられた手書きの手紙をもらうなんてことは、最近では滅多にあるものではない。
それなのに、相手が誰なのかわからない。覚えていない。会ったことがあるみたいなのに。

世界が自分を手招きしていた。
自分に宛てて、自分を名指して、貴方はここにいたはずだ、と言っていた。
自分は、覚えていないだけで、ずっとその世界にいたのかもしれない。
少なくとも、晩餐会への招待は受け取ったのだから、その世界にはきっと、自分の居場所があるのだ。

そういうもどかしいようなふわふわとした気持ちを抱きながら、ついに晩餐会の当日を迎える。

だいぶ早めに着いてしまったので、近くを散歩した。
路地裏に、小さな公園があった。
6月23日。夏至をやや過ぎ越した日の名残りは19時だというのにまだうっすらと残っていて、あたりに薄闇が忍び寄ろうとする時間帯。
足元に残るぬかるみが、季節がまだ梅雨でもあることを教える。今日も夕方に一雨あった。

公園のそばには大きめのグラウンドがあって、オレンジ色の照明はすでに煌々と点っていて、ゲートボールの、カコン、という音が時折妙に大きく響く。

グラウンドの照明を背に公園のベンチに腰掛ける。一泊分の荷物の入った大きめのカバンをドサッと置いて、ポケットからあの封筒を取り出した。
もう一度、川乃雫さんからの手紙を丁寧に読んだ。
この人と、もうすぐ会える。会ったら思い出せるだろうか。
何か言葉を交わせるだろうか。

手紙をそっと折り畳んで、空色の封筒に仕舞った。


***


泊まれる演劇への参加は3回目で、直近では3月に大阪で参加している。
小さな子どもがいて東京に出るのにさえもけっこう距離のある自分にとっては、一泊しての遠征には様々な調整が必要になる。
調整に成功したところで、当日になって家を出るその時まで、予定通りにいくという保証はどこにもない。子どもが熱を出したらその瞬間に一発アウトで、幼い子どもというものは息を吸うように熱を出す。現に彼は6月末、先週、今週、と立て続けに熱を出している。

そうしたコストやリスクを負ってまで、3ヶ月というスパンで泊まれる演劇の予約を入れたことに対して、正直なところやや痼りのようなものがあり、当日に向けてそれは大きくなっていった。
無事当日を迎えられたという「奇跡」への感謝の裏側に、依然としてうっすらと痼りが張り付いていた。

でもあの夢のような一晩のあと、そうした気持ちは跡形もなく消え去った。

圧倒的な体験の前に、閉じた内面でこねくり回されたネガティブな思考の一切は無力である。


***


チェックインが済むと、コンシェルジュから、名前を渡された。

花の名前。

なんの役割も、なんの属性も帯びていない、透き通った名前。

ダリア、というその名前は、この世界での自分を、なんの役割も属性も帯びていないまっさらな自分を、自分という一人の存在として、ガラスのように涼やかに指し示してくれる名前だった。
まだ少し耳慣れないけれど、あたたかく、心地よく、力を抜いていられた。

後になって、モーテル内でその名を使うことには或る意味があるのだとわかった。

本名が、自分の持つ記憶や他者の持つ自分に関する記憶と結びついているのだとしたら、ダリアという名前は、そうした記憶のつながりを持たない、自由なラベルでもあった。

***

今回の泊まれる演劇『雨と花束』は、参加した泊まれる演劇3作の中では文句なしに一番好きだと思ったし、これまでに参加したイマーシブシアター作品の中でも1、2を争う大切で素敵な体験になった。

それには様々な理由があって、語れば何時間でも語れてしまいそうなのだけれど、その様々な理由の中核にあるのはこれだ、という気が何となくしている。

「「「世界に自分という一人の人間の存在が、肯定されて在ること」」」

これは色々なイマーシブシアターに参加してきて、自分の没入が深まる鍵というか、世界に深く入り込むきっかけになる要素である、と最近認識していることでもある。

このへんは、本当に人によって様々だと思う。登場人物に認識されるのが苦手という人もいれば、もっと積極的に世界に介入したいという人もいそう。でも自分はこれかなあと。
物語を動かせなくてもいいのだけど、自分の存在がその世界において認められて肯定されていること。

ムケイチョウコクの『反転するエンドロール』登場人物チケットで参加した時の、作品世界に属している感覚が物凄くて、「これが……没入……!!」と衝撃を受けた。
一度登場人物ルウとして生きたあの場所に再び傍観者として訪れ、かつてルウとして会話を交わした人々を前にした時に、わけもわからず滂沱の涙が流れ落ちた体験はちょっと、言葉に余るほど凄いものだった。

『雨と花束』では何より、「花の名前」が与えられていたことが大きい。

本名の自分を介さなくてもいい、何の属性も役割も帯びていない、ここだけの名前。スミレさんやミヤコワスレさんやスズランさんたちと同じように、花の名前。
「花」というゆるやかなつながりを、他の招待客たちとゆるやかに共有できる名前。

イマーシブシアターの一要素としてよく「観客にも役割が与えられる」と言われる。
『雨と花束』では、参加者は晩餐会の招待客、支配人の走馬灯の参加者という大枠の意味付けは与えられているものの、実質として、役割は与えられて「いない」。

名前を与えられていて、役割を与えられていない。これがすごい。


***


儀式は圧巻だった。

音と光と、身体の動きと、風と、香りが渾然一体となって、円陣の周りをぐるぐると回転して、雑踏のようなざわめきに、懐かしいような子どもの声、薄く開けた視界に木漏れ日と影が揺れ、真っ暗な子供部屋のカーテンの隙間から天井に投影される車のヘッドライトのようにすぅっと動き、自分の出す声、隣の人の出す声、混ざり合って祈りのような、悼みのような、通奏低音、の上を時折跳ねる音。

すべての感覚は言葉にしようがなく物凄かった。
走馬灯というものがあるならまさしくこれだろう、これに違いない。と思わされた。
30年の時を超えられるのも当然だと思ったし、説得力が半端ではなかった。

違和感なく、30年前に着地した。本当に周りの世界はすべて一変してしまったように感じた。

雫さんの淡々とした調子が全く変わらず、雫さんだけが唯一、現在と30年前を貫いて一本の長い槍のように存在しているように思って、なぜか少し安心したのを覚えている。


***


さっき花の名前について「本名の自分を介さなくてもいい」と書いたけれど、もちろん、実際には100%そうというわけにはいかない。
花の自分としてコミュニケーションし、言葉を紡ごうとする中で、どうしたって本名の自分はそこに付いてくる。

特に「記憶」というものについて会話を交わすにあたっては、自分の感覚や考えが否応なく引きずり出されてくる。自分の記憶そのもの、体験そのものも。

そうしたときに、まっさらで透明だったダリアという名前に、改めて本名の自分の一部が貼り付いていくような感覚になった。

入口で渡されるカードのように輪郭だけしか持っていなかったダリアという花に、徐々に色が付いていくような。

その感覚がまた新しく、時に自分ではないダリアとして、時に本名の自分自身として、言葉を紡いでいく中で、両者の色が混ざり合った新しい自分が立ち現れて存在しているような、不思議な瞬間もあった。
きっとあの場所の触ると溶けてしまいそうな幻想的な雰囲気が、靄のような不思議な存在のあり方を許容していたのではないかと思う。それさえも肯定する力が作品にはあった。


***


部屋に足を踏み入れると、他の部屋とは雰囲気が違っていた。

30年前の住人たちの部屋にお邪魔して印象深かったのは、どの部屋のどの住人も、部屋に入った瞬間から、過去の人だ、と直感したこと。
それが佇まいなのか、風景なのか、服装なのか、それ以外の要素なのか、あるいは先の儀式を経た自分の側の問題なのか、わからないけれど、とにかく直接お話ししながらも、常に薄くもやがかかったような感じで、ひどく儚く、触れたら消えてしまいそうに脆い、煙のような存在のように感じた。
それでもその存在は部屋部屋の周波数としっかりと合っていて、人物の佇まいは部屋のためにあつらえられたような、逆にその佇まいのために部屋があつられられたような。
とにかく部屋と人が同じ時空間に属していることだけははっきりとわかった。

一方で「現在の川乃雫さん」の部屋は、他の部屋が靄のように揺らいでいるように見えたのとは違って、ここだけ時が止まっているように見えた。
針のような松葉があまりにソリッドな状態で静止していたからかもしれない。
テーブルや椅子に這う苔からも、悠久とか永遠とか、そういう印象を受けて、自然と時が止まっているように見えたのかもしれない。

雫さんは壁にもたれて地べたに座っていて、彼自身もやっぱり時が止まっているように見えた。ただし松のようにソリッドではなく、柔らかさを湛えながら時を超えてそこにいた。

全体としてそういう印象を受けながら椅子に腰掛けたものだから、彼と交わした最初の会話は自分の心中を読まれたかのようで印象的だった。

「きれいな、松、ですね」
「ええ。……松の花言葉をご存じですか?」
「いえ、知らないです」
「松の花言葉は、不老長寿、だそうです。松に花、というイメージはあまりないかもしれませんが、ちゃんと花をつけるのだそうです」

そのあと、30年前の旅人たちとは話したか、と訊かれた。
ファフロツキーズ現象について調べているというスミレさんに会った話をした(うろ覚え過ぎて「スワロフスキー現象」と言ってしまった。ずいぶんと豪勢な現象だ…)。
そのあと、記憶についての話題に移った。

誰かの記憶に残ること、誰かの記憶から消えること。忘れないこと、忘れたくないこと。
あなたは記憶についてどう思うか、と。

うまく答えられたのかよくわからないけれど、自分なりに考えていることを、つっかえながら話した。
その間雫さんはじっとこちらを見て、耳を傾けてくれた。笑顔ではなくてもたしかな優しさがあった。尊重があった。

自分はこの世界で、この椅子に座って、話していていいんだ。まっさらなダリアとして、自分の考えを音にして放っていいんだ、と思えた。

この小さな部屋の中で、ダリアは存在を肯定されていた。

ダリアの話を聞き終えた雫さんは、続く会話の中で、半ば独り言のように「覚悟」という言葉を発した。
その時の自分にはよく意味がわからなかったけれど、妙に引っ掛かった。
ゆらゆらと柔らかな雰囲気を纏っていた雫さんが、その時だけ、少しく硬さを帯びて、松葉のような輪郭になったから。

***


他の登場人物たち、とりわけ同じく一対一で長い時間記憶に関する会話をしたアジサイさんとのやりとりの中でも、ダリアが存在を肯定されている、ダリアは他ならぬダリアとして、アジサイさんの目の前でそのあり方を認めてもらっている、という感覚を強く感じた。

ディテールが多すぎて書ききれないのだけれど、ある部屋でアジサイさんに投げかけたある質問を、ちょうど別の入室者があって流れ的にその場では答えられず、別の部屋に移動してからシオンさんの前で行う独白の中で答えてもらった時のことが、深く心に残っている。

独白の中で突然「ダリアからの質問に答える」とこちらを真っ直ぐに見て言葉を続けたアジサイさんの顔が忘れられない。
あの質問は答えられないまま途切れてそこで終わったのだとばかり思っていたから(人と人との間では、往々にしてそういうことがある)、時間を超えて名前を呼んで応答してくれたことに驚き深く感動した。実際には目を合わせたまま小さく頷き返しただけだったけれど、感謝が伝わっていたらいいなと思う。

目が合うこと、応答してもらえること、それだけで存在と存在は呼応する。


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自分が自分として、あるいはダリアという名前を介した自分として、存在が肯定されている、世界から肯定されている、という感覚。

その感覚は、直接的なやり取りからだけでなく、作品全体から随所に感じ取ることができた。
感じ取ることができたために翻って、作り手のそれぞれが同じ考え方を共有してこの作品を作ってくれているのだ、ということがわかった。
このことは本当に、何度でも強調したい。

たとえば、「マイノリティ」とされている性的指向を持つと思われる登場人物がいる。
ごく自然な会話の中でごく自然にそれが「わかる」。
そうだからどう、とか、こうだからそう、ということは無い。当たり前にそこにある。
その設定はありのままにそこに在り、物語のための意味を付与されない。属性を帯びていない花の名前もそう。

存在に意味を付与されない。

これにどれだけ救われるか。

その人の部屋での会話の中であまりにさらっとそのことがわかり、それに意味が付与されていないらしいことを理解したとき、ふうっと身体の力が抜けるような、じんわり温かいような、そういう感覚になったことをよく覚えている。ここにいても大丈夫だ、という安心のようなものだったかもしれない。

パンフレット…ではなく学術誌『the Nature』の中のインタビュー記事では、その登場人物に関してはオーディション段階から、そのような設定であることについて問題はないかどうか、候補者に確認をしていたと述べられている。
それを読んだ時、あの部屋で感じた安心感は間違っていなかったんだなあ、としみじみ思った。作り手の作品に対する向き合い方が作品自体から滲み出ていて、その一端をあの時感じたのだと。

存在を肯定されている、という感覚は、作り手を信頼させてもらえることのありがたみと直接繋がっている。

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招待客どうしの交流、という意味での演出や対応にも同様の優しさを感じた。

泊まれる演劇に一人で参加するとき、わかってはいても疎外感を感じることがあった。
開演前、ロビーの美術やドリンクについて、これから起こるかもしれないことについて、連れどうしで参加している人たちがあれこれ話している中、同じく一人の人を見つけて隣に座り、話しかける、という行動は、できることはできるのだけど、人見知り気味の自分などにはなかなかハードルが高いものがある。気にしなくていいと思いつつ性別なども少し気にしてしまったりする。そういう過程で、没入、というものからは離れていってしまう。

また、そこでうまくいかないと、泊まれる演劇やイマーシブシアターの醍醐味であるはずの劇中やその後の他の参加者との情報共有などもあまりできず、ちょっともったいなかったなあと苦い思いが残ったりもする。そしてそんなふうに物語と直接関係のない部分でマイナスの思いを抱いてしまうのは違うよなあ、もったいない、などとさらに落ち込んだりする。

『雨と花束』では、こうした苦い思いを感じることが全くなかった。
それは他の参加者の方々の優しさと、自分自身の少しの「勇気」のおかげでもあるけれども、大部分は演出のおかげだと思っている。
何と言ってもスズランさんの存在に始まり、劇中でも様々な工夫がされているのを感じた。
その時は夢中だったけれど、後になってその配慮や優しさに感謝の気持ちが絶えなかった。

「世界に自分という一人の人間の存在が、肯定されて在る」

そのことを一つメタな部分でも感じさせてもらえて、とても嬉しかった。

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それから、『雨と花束』の物語の中心的なテーマ、記憶と忘却も、存在の肯定に深く関わっている。

そこまでのメッセージ性は含んでいないよ、含ませないでくれよ、と怒られてしまうかもしれないけれど、自分はこう感じたというところを書きます。

唐突ですが、この社会の中で、権力とは「忘却すること」だと感じます。「存在を否定すること」と言い換えてもいい。忘却とは主観であり、存在否定もまた主観による営みです。

存在を忘却する=否定する、という権力の暴力的な作用対象は、ある特定の人にも当てはまるし、ある属性を持つ集団にも当てはまるし、ある領域にも当てはまるし、ある出来事や事実にも当てはまる。誰かの「声」や、悲しみや苦しみといった、その人の中では確かにあったはずの感情、にも当てはまります。
抽象的に書いていますが、具体的にどういうことを指しているのかは、きっと人それぞれ思い至ることがあるのではないかと思います。

この社会のあちらこちらで、なかったことにされている存在があります。そのようにして社会は回っている(ことになっている)と感じます。

そういう存在たちは、言うなれば毎晩真夜中の0時に、社会の記憶から消されている、のかもしれません。

そういう存在たちは、ギターを抱える川乃雫さんのように、どこか静かで寂しげな表情をしながら、毎晩社会の記憶から消されているのかもしれません。

それらに『雨と花束』が与えた救いは、救いと呼ぶには無力で切なすぎるのかもしれないけれども、でも少なくとも確かなことは、それらの存在を、あの世界は一切否定することなく認め、ありのままに見つめ、全力で優しく肯定していたということです。
だからこそ、あんなにも心が動かされたのだと思います。


川乃雫さんは、最終的にある決断を下します。
あの決断は、ともすれば自己犠牲型のヒロイズム的な文脈に陥ってしまうような種類のものだと思うのですが、彼は葛藤に葛藤を重ねた末にあの決断に至りました。それがしっかりと描かれていました。
アジサイさんの物語では、忘れる側と忘れられる側、双方の苦悩が描かれていました。

あの物語では誰もが、「物語のための犠牲者」となることなく等しく尊重され、慈しまれ、存在を肯定されていました。

最後に川乃雫さんが姿を消し、雷鳴とともに草花がどっと降ってきたあの光景は、目に焼き付いて離れません。


***


0時になったと誰かが言った。
誰もが放心したように息を呑み、時だけが静かに流れていた。
我に返って自分の腕時計を見ると、たしかに0時だった。ちょうど0時。

誰一人として、川乃雫さんのことを忘れている者はいなかった。
自分もしっかりと覚えていた。
ついさっきまで目の前で、静かに苦しんでいた川乃雫さん。
松と苔のある部屋で、しんしんと言葉を交わした川乃雫さん。
親しみのある、でも少しだけ突き放したような、手書きの文字で、自分に宛てて手紙をくれた川乃雫さん。

本当に、昨日までは毎晩、彼のことを忘れては忘れ、忘れては忘れていたのかもしれなかった。
でも今日は覚えている。彼は自ら、永年の呪いを解いたから。

雫さんのいない世界で、時は静かに流れていた。
いや、ここは本当に「雫さんのいない世界」なのだろうか?
森純恋さんをはじめ、こんなにもそれぞれの心の中で、彼は息づいている。

記憶と忘却、存在と非存在、現実と虚構が滲んで交じり合う中、時は静かに流れていく。
雨粒の雫を集めて流れ続ける、川のように。

(2023年8月2日投稿 元記事@ふせったー

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