エッセイにおける人称を考える

小説を読んでみたら、自分が思っている「小説っぽさ」ってなんだったんだろうと考え直すことになった。そう考え直したときに、なんだか気持ちよかったことを覚えている。

小説を書くなら、小説らしい文章を考えなければいけないと思っていた。「私はこう思った」とか、一人称なら、一人称らしい文章、「Aはこう考えた」とか、三人称ならそれらしい文章がある。

その「小説らしさ」がよくわからなくて、戸惑っていた。けれど、ちゃんと完成されて本になった小説を読んでいると「らしさ」というものは感じられない。書いている人がちゃんと自由に書いて、小説を成立させているように思った。その自由さを感じることができた瞬間に、自分の中の「らしさ」が壊れて、なんだか新しいものが書けるような気がした。

一人称とか、三人称とかなんだか難しくてよくわからない。よくわからないから、主語が「私」なのか、「太郎」とかの具体的な人名なのかぐらいしか考えていなかった。しかし、いちいち「私」とか言わなくてももうすでに一人称で考えていることがある。「太郎」とか書かなくても、三人称で考えている。

このような言葉を書くと小説になる、という順番ではなく、自分が今まさに書いているものが何なのかを知って、それをさらに汲み上げていく順番の方が自然だ。「小説らしい文章」を書こうとすると息苦しい。でも、自分がかける文章から「小説」を書くことはできるのではないだろうか。


こうして書いている文章にも、人称はあると思われる。

わたしは、この文章の中で「わたし」と書く。だから、これは一人称の文章だと言える。一人称のエッセイと言うと、なんだか変な感じがする。エッセイは自分視点で書くのが当たり前のような気がする。だからわざわざ「一人称の」とつけない。でも、それゆえに自分がどんな文章を書いているのかを忘れがちになる。何を書いているのかがよくわからなくなると、文章を進めていくのが不安になってくる。

一人称のエッセイと書くと、では三人称、二人称のエッセイはあるのだろうか、と疑問に思えてくる。

わたしはリンゴを食べた。

この文章を三人称に変形すると、

たくみんはリンゴを食べた。

と言うことになる。

二人称だと、

あなたはリンゴを食べた。

である。

簡単なことである。人称を見分ける基準となるのは、「わたし」などの主語だからだ。明確に主語を変えれば、人称も変わる。

しかし、前の段落の「簡単なことである。」と言う文章は、一人称か、三人称か、あるいは二人称なのかと聞かれたらどう答えれば良いだろう。主語がないから、見分けることができない。

それに、人称が変わると文章の意味も変わる。

もし、「簡単なことである。」が一人称であった場合、この文章の筆者が「簡単なことである。」と思っただけのことだ。エッセイの場合は、感想を述べているだけだから、それが普通の解釈とも言える。

しかし、もし「簡単なことである。」が三人称である可能性もある。その前の文脈で「わたし」「たくみん」「あなた」と言う主語を変化させて人称を見分けると言う話をしていた。主語が変われば、人称も変わる。例文もシンプルだった。だから、これを読んだ人は誰しも「簡単だ」と思うかも知れない。だから、「わたし」の個人的な感想ではなく、一般的に「簡単なことである。」と書いたかも知れない。

こうしてみると、主語がない文章にも人称があるということになる。

このエッセイも、ただの書き散らしに思えるかも知れないが、人称があるということになる。

主語は人称を区別する基準になっているだけだ。一人称の文章が全て「わたしは」から始まっているわけではない。としたら、人称を意識していない文章にも人称の考え方を持って意味を汲み取ろうとすることはできるかも知れない。


エッセイだから一人称なのは当たり前じゃないか。そう思ったが、もしかしたら違うのかも知れない。エッセイには、問いかける文章が出てくる。直接に「あなたはどう思いますか?」と聞いてもいい。あるいは、客観的に「わたしの叔父が」と、他の人の動きを記述することもある。エッセイは一見、一人称に見えるが、人称が混在している。一人称が当たり前だから、一人称のエッセイと呼ばれないのではなく、人称があやふやだからいうことが出来ないのではないだろうか。

人称を意識すると、書く上では考えやすくなると思われる。エッセイの曖昧さを、よりわかりやすく書くことができる。曖昧だからこそ、ここはどんな視点で書くべきか考える基準ができるといい。

例えば、個人的な意見を述べたいときは、一人称で書くことを意識すると書きやすくなる。「このラーメンは美味しい」と単純にいいたいなら、そう書けばいい。しかし、個人的な意見にとどまらず「このラーメンは美味しい」ことを普遍的に述べたいときは「このラーメンは出汁が効いていて、とても旨味が濃厚である。それに、この味を求めてたくさんの客が県外から来る」とでも書けばよい。

書きたいことに、人称を合わせる。これは、「わたし」とか主語がない文章でも意識できることである。むしろ、文章全体を見ると主語がない文章の方が多い。その文章を書くときにも「人称」という考え方は有効である。

わたしは、一人称で考えることが好きだ。余計なことを考える必要がないから。それに、わたしが今まさに体験していることを書くのだから、「他の人はどう考えるのだろう」と気を配ってしまうと文章がぼやける。

一方で、人に何かを説明したいときに一人称的な文章を書いてしまうと、わかりにくくなることがあるかも知れない。特にラーメンの例などは、ただ単に自分で「美味しい」と書いているだけでは食レポにならない。「この味を求めてたくさんの客が来る」みたいなところは、本当に自分でそう思っている必要はない。ラーメンの美味しさを客観的に書き表したいという思いで、自分の舌の感覚だけではなく、実際に見えることや他の人が見ても納得できることを書くのである。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!