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手書きかキーボードか

文章を書く時、手で書くのとパソコンに打ち込んで書くのとは違いがある。

キーボードを叩いて書く方が速い。手書きだと遅い。その速度の違いが文章の質を変化させている。どのぐらいの速度で書いたかどうかも文章の形に影響を及ぼすのだと気がついた。

そのきっかけは、手書きの文章を書く時に感じた違和感だった。どうやら頭の中で考えていることと、書いている文字が一致しない。だから、文章を書いていても書いている気がしないのだ。文体と精神の不一致が起こってしまった。

パソコンで書くのに慣れてから、手書きで書いてみると、パソコンで書いていたような速さでは書けないことに気が付く。それにつれ、頭の中で言葉が紡がれるスピードも違う。パソコンに書くときと同じスピードで手書きで書くと頭と手と言葉がぞれぞれ一致しなくなる。頭は言葉に先走り、手はそれに追いつけなくて文字が乱れる。

手書きの文章には独特のリズムがある。ペンで文字を書き連ねていくリズムだ。そのリズムは適度にゆらいでいて一定ではない。呼吸が常に規則正しいリズムで行われているわけではないように、文字によって書くのにかかる時間が違う。手の動きも違う。同じ文字だとしても、同じ形であることはない。

対してキーボードで書く時には、そうしたゆらぎは丸め込まれる。

例えば漢字で「見る」と入力するのと、平仮名で「みる」と入力するのにかかる時間と動作はほぼ同じである。手書きではそういうことは起こらない。文字を打ち込む感触はペンで書く時のそれとは刺激が弱く、書いていることそのものの感触は少ない。逆に活字の視覚的イメージが前面に立つ。書き直すことと、編集することの柔軟性は手書きよりも格段に高い。書いては消して、段落を飛び回り、パズルを埋めていくように完成させるというような書き方も可能だ。手書きでは、そう簡単に直すこともできない。カメラの一発どりのようなイメージである。全ての要素をコントロールすることはできず、むしろ偶然に生まれた言葉が文章をひょんなところに運んでいくことがある。

ペンで書く、というのは身体の感覚を研ぎ澄まされるような気がする。そうした身体の内面に注意を向けている時は、誰かの前にいられるような状況ではなく部屋で一人で書く。対して、パソコンに文章を打ち込むことは公共の場所でも平気でできる。

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文章を書く質感が違うのだ。

書き手は質感によって文章からフィードバックを得て、文章が向かっていくべき方向を嗅ぎ取る。その質感の受け取り方が違えば、同じ内容でも文章の筋道が違う。書く道具もまた文章に影響を与える要因になる。

言葉には、かたちがある。「ことば」と書く時には「ことば」の形通りに指を動かすか、文字を書かなくてはならない。言葉というと、姿が見えない抽象的存在のように思えるが、実は肉体や意識が作り出す具体的な出来事である。声にしても、声帯を震わせて初めて空気の振動として、相手に届く。「ことば」とパソコンに打ち込むことと、ペンで書くことの質感は違う。どんなパソコンで書いたのか、どんなペンで書いたのかも影響する。

書き手と読み手の関係性もそれぞれ異なる。

パソコンに直接打ちこまれた文章は、出来上がった文章の前に、書き手と読み手が絵画を鑑賞するように同じ立ち位置で文章を眺めているような関係である。書き手は絵画の裏に回って、独自の正解や感想を押し出すことができない。見えるようにしか見えない。ある意味書き手と読み手の立場は文章のもとに平等であると言える。

一方、手書きで書かれた文章は書き手と読み手は向かい合って座っている。書き手は言葉の見た目ではない質感や形に強く影響を受ける。読み手はそれをなんとか受け取ろうとする。書き手の書く姿勢や、文体に読み手は大きく影響される。場合によっては、文章だけではなく書き手の生き様や人格なども文章の意味に影響することもある。書き手は向かい合わずに、読み手の隣から語りかけることもできるだろうし、はるか遠くから呼びかけることもできるだろう。

どちらがいいという話ではない。むしろ、速くかけるキーボードの方がいいとか、手書きの味こそがいいという一方だけを肯定することはできない。どれも言葉である。どの書き味もコントロールして表現の違いを作り出す要素にできるだろう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!