右も左もわからない

考え事を文章化する練習をしている。考えたことを、どうやって筋道を立てて文章にすることができるだろうか。読み返したときに、あの時はどうやって考えたのかを思い出すことはできるだろうか。それに挑戦している。

思い浮かんだテーマは「なぜ、右と左があるのか?」である。

初めてこのテーマを見たのは、物理学の本だったと思う。それまでは「右と左の違い」については全く考えたことがなかった。

鏡を見ると右と左だけが入れ替わらずに映る。

いまだに、何がどうして不思議なのかわからないが、物理学の世界ではそれが不思議なことらしい。

考え始めるまでは、別に不思議にも思っていないが考えれば考えるほど不思議に思えてくる。


どうして、右と左があるのだろうか。一応、箸を持つ方が右とか、北を向いて太陽が登る方が右とか「定義」はある。しかし、なぜ、そうした定義をするのか。そもそも、右と左で分かれていることに意味はあるのか?

物理学にあるらしい右と左の問題について考えることはむずかしいので、自分の身の回りにある「右と左」の問題から考えてみようと思う。


右と左がある、と言われてまず思い浮かぶのは、「利き手」である。わたしは右利きなので右手で文字を書く。ペンは右手で持たなければいけない。親がそう教えてくれたことを覚えている。

「右で持たなければいけない」と教えるということは、私にそう言った親は明らかに、右と左には違いがあると考えている。

「どうして、右で持たなければいけないの?」とそのときに親に問いかけたことはない。なんとなく、右で持ち始めてしまった。親の代わりに今の自分が代わりにその問いに答えてみよう。

ひょんなことがきっかけで、左手で文字を書き始めたことがある。わたしは普段、右でペンを持って書いていたのだが、ある時ペンを持つ手が疲れてしまった。長く書いているとよくあることである。普通は書くことができるようになるまで待てばいいのだが、その時は急いでいた。ずっと書いていたいと思っていた。そこで、痛む右手の代わりに左手でペンを持つことにした。

聞き手と逆の手でペンを持つとうまく字が書けなかった。そして、文字を書くときの手の動かし方が違う。右で持つと横棒を左から右に「引く」動きをするのだが、左で持つと、横棒を左から右に「押す」動きになる。

まだ、左手は右手と同様なぐらいまで慣れていない。だから「慣れてるかいないか」の違いはよくわからない。しかし、言葉にしただけでも「押す」「引く」の違いが生まれている。

そこで、一つ問いをだしてみる。

なぜ、右手で横棒を書く動きは「引く」動きになって、左手で横棒を書く動きは「押す」動きになるのだろうか。

考えてみれば、すぐに説明できない気がする。完成した文字は同じである。なのに、それを書く動作の名前が変わる。右か左かで違いが生まれている。その違いを生み出しているのはなんだろう?

辞書的に言葉の意味を考えてみる。「引く」と「押す」はどう違うのだろう?

ドアの場合を考える。ドアには引いて開けるドアと、押して開けるドアのに種類がある。引いて開けるドアは、体の方にドアノブを近づけて開ける。押して開けるドアは、ドアノブを体から遠ざける向きに押して開ける。体、という基準線があって、それに近づく動きが「引く」、それから遠ざかる動きは「押す」でいいだろうか……


しかし、書く場合の基準線はどこにあるのだろう。それを考えると、ドアの「押す引く」と書くときの「押す引く」の定義は矛盾している。

体の中心が基準だとすると、右手で漢字の『一』のように横棒を書く動きは、体から遠ざかっている。逆に、左手で漢字の『一』を書くと、体の中心線に近づいている。ドアの定義のように「体に近づくのが引く」「遠ざかるのが押す」と考えることができない。

しかし、どうしても、右手で『一』を書くときは、引く動きをしているように思える。左手で『一』を書く時は、押す動きをしているように思える。

わたしはなぜ、そう思ってしまうのだろうか?

おそらく、筋肉の動かし方が似ているからである。

ドアを引く動きと、右手でペンを引く動きは似ている。

ドアの場合は、自分の体の正面が北だとすると、南の方に引く動きをする。そのまま左を向いて、同じ動きをするとペンを引く動きになる。あるいは、ひじを左に90度だけ回して「引く」動きをしてみるとペンを引く動きと一致する。

だから、同じ「引く」という言葉を使うのかな……。

左の方向に回転したら同じ「引く」の動きなのか?

いや、右に回転しても「引く」の動きのような気がする。

ドアの場合の例えをさらに続ける。北を正面にして、北から南に引く動きをそのまま左に90度回転させるのが「ペンの引く」だった。しかし、それをさらに180度回転させても「引く」動きのような気がする。体を回転させずに、後ろ手でドアを「引く」ような動きになるがそれもまた、引くである。関節はそれ以上回らないが、270度回転した東から西に引く動きもまた「引く」という感じがする。結局、右手で「引く」動きをしたらどんな回転をさせても「引く」動きのような気がする。


これを、左でやったら?

色々左手を前に引いたり押したりしているうちに、変なことに気がついた。

例えば、漢字の『一』を押して書いていると説明したが、それは引いて書いているとも解釈することが可能なのだ。

なぜなら、左手で左から右に押す動きは、ペンを持つような形の手でやると「押す」なのだが、少し手首を左にひねって左から右に動かすと「引く」の動きをやっているように思える。これは、少し変だ。(今更何が変なのかわからなくなってきているが)

もう一度説明すると、方角だけで考えると「引く」動きと「押す」動きが同じ運動に思えてくることがあるということである。正面が北だとすると、左手で西から東に線を書く動作を「押す」ことによってすることも「ひく」ことによってすることもできる。どうやら、腕だけではなく、手首の向きも関係あるようである。手の甲を北側(正面)に向けて西から東に動かすと「押す」感じがする。一方、手の甲を南側に向けて、西から東に動かすと「引く」感じがする。

右で書く方が、線を「引く」動きをするから書きやすい、という説は本当だろうか? 人間は「押す」より「引く」が得意らしい。確かに、わたしは漢字の『一』を左手で描く時、自然と「押す」動作で書いてしまった。しかし、今までの考え方をすると、漢字の『一』を左手で引いて書くことも可能であるように思える。


これは、実際にペンで書いてみるしかない。

試しに、左手で『一』を「引く」で書いてみたが、確かに書き味が違う。ここで発見したことは、左手で「引く」と手元が見えにくくなる。試しにペンを持って、左手で「引いて」みようとしてみてほしい。左手に持ったペンを自分の体の方に傾けて、左から右に「引く」動きをすると、ペン先が指に隠されてみることができない。

「引く」か「押す」かの動きの優劣よりも、見えるか見えないかの違いがあってうまく判断できない。結局、左手では「押す」ように書く方がいい気がする。

対して、右手で「押して」書くこともできそうである。

右手に持ったペンの傾きを体の外側に向けて「押す」ことで『一』を書く動きである。これもまたペン先が見えなくて、書きづらい。しかし、左手よりかはマシである。

「書く」動きでは、左で押す動きと、引く動きの違いがよくわからない。

特に、左右方向の軸で考えると「引く」と「押す」の違いが曖昧になる。これは一体どういうことなのだろう。人間の体の作りは関係あるのだろうか?


よくわからない。

今日はこれぐらいにしておく。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!