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否定しない

否定しない、あるいはされないというのは、「安心」において前提とするべきだと思う。文章の中で、何かを否定しない。

これは、案外犯してしまいがちなルールである。徹底しようとすると細部にまで気を配らなくてはならない。いきなりタイトルで、「ではない」とか、「NO」とか自分でも使ってしまっている。

そのようなタイトルだと、そもそも書き手の言い切りに賛成できない人は排除してしまっている。建物の入り口を見て、入ることができないのなら、それは「安心できない」建物なのである。

否定することは、否定されるものとそうでないものを分け隔ててしまう。それが否定することの、弊害である。

実は、書き手は否定すること副作用に無自覚であることが多いのではないか。なぜかというと、書き手はその文章で主題を伝えるために、他の何かを否定していることがあるからだ。つまり、Aを推すために、Bをこき下ろす。その対比で、Aを際立たせるのだ。本当は、Aについて書きたい。だから、書き上げてしまうとこき下ろしたBのことを忘れてしまっていることがある。本当は、Bの方が良いと思っている人もいるかも知れないのに。

そういう場合は、素直に「Aがいい」と、Bを否定せずに書けばいいだけだ。何かを否定しなければならない理由はない。全ての否定は回避できるのではないだろうか。もちろん、はっきり悪いことは悪いと伝えなくてはならない時もある。しかし、「悪いことは言及しない」という回り道もあるのではないか。私なんかは、正面切って何かと対立するよりかは、迂回した方が楽に感じる。時間はかかるが、お互い無駄な争いを避けることができるし、「悪い」と思っていたものが後でいいものに思えてくるかも知れない。

何かを否定する論理は、ほとんどの場合、迂回できる。つまり否定することは、表現の方法の一つに過ぎない。だから、「安心」を尊重する方針で何も否定しないと決めて良い。それで書くことの幅が狭まるとは思わない。むしろ、書くことにおいて回り道はした方がいい。なぜなら、それは書くことが多くある道を歩くことだからである。単純に「こうだ」と一言で済ませてしまったら元も子もない。書くことは「こうだ」とあえて言わずに、物事を具体的に複雑に見ていくことだ。制約は多くあっても問題ない。

もう一つ、否定されがちなのは「自分」である。自分を否定した文章は、読みづらい。書き手自身が、文章をつまらないものだと思っていると、本当に文章はつまらなくなる。もちろん、建前として「つまらないものですが」と始まっていく文章もあるが、それは最後に「面白い」と言わせるためである。その場合でも書き手は、自分の書いたものを面白いと思っているはずである。

文章を書くときの感情は、どうあってもいい。悲しくても、辛くてもいい。しかし、それが否定される形で書かれてはいけない。「悲しく思っている自分なんてダメだ」と書いてしまうと、共感したくて読んだ人はしっぺ返しを食らった気分になるだろう。

そもそも、書きながら考えるのならなおさら、書かれたものを肯定しなければならない。書かれた一文を受け入れて、次の文を考えなくてはいけないからだ。何もかもを否定してしまったら、文章が進んでいかない。つまり、読む側だけではなく、書く側にも「否定しない」というルールは重要である。完璧ではなくても、疲れていたとしても、書いたものは書いたものである。

第一、「否定しない」ということ自体も、「否定する」ことを否定している。これだと、正面切って「ダメだ」と書くスタイルが悪いことのように聞こえてくる。だから、本来は「肯定する」とストレートに書くべきである。しかし、「否定しない」というタイトルで書き始めてしまった以上、それを覆すのは難しい。「否定すること」を中心に話が進んでしまっている。というわけで、矛盾を起こしているのを断りつつ、書いたものを否定せずに投稿したいと思う。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!