もやもやとは何か?

心がもやもやする。

例えば、お父さんとお母さんの言っていることがちがうともやもやする。

学校では信号を守りましょうというのに、赤信号を守らない人を見るともやもやする。

コーヒーを飲むと眠れなくなる。わかっているのに、飲んでしまう。

好きな人とたくさん話したいのに、好きだと思えば思うほど話せなくなってしまう。

もやもやするのにも色々ある。だから、「もやもや」するときはただ一言「もやもや」で片付けられないものが心の中にある。

わたし、もやもやしているんです。

そういうことができる場は貴重だ。

なぜなら、そこでは、あなたは心にうまく言えないものがあっても許されているということだからだ。もやもやできるということは、言葉にしなくてもいいということ。言葉にしなくてもいいということは、心のみならず、色々なものを言葉にしないまま置きっぱなしにしてもいいということ。


一方で、言葉にしなくてもいいということと、言葉にできないということは違う。

言葉にできないから、もやもやしている。

……でも、「もやもや」という言葉にしているから、それは「言葉にできないもの」ではないのではないか?

……「言葉にできない」と言ったとしても、それは「言葉にできない」という言葉ではないのか?

じゃあ、「言葉にできないもの」はどこにある?

それは、言葉にされる前ものじゃないだろうか。

言葉にされる前の言葉。

「言葉にできない」と言われる前の、「それ」

「もやもやする」と、言いたくなった時の心の中にあるそれ。
「リンゴがある」と言いたくなった時の、赤い光。



言葉にできないものがなければ書くことはできない。これは変に聞こえるかもしれないけれど、わたしの考えではその通りなのだ。言葉にできないものを、「まだ、言葉になっていないもの」とするならば、まだ言葉になっていないから、今まさに言葉になっているのであり、書くことはまさに言葉にできないことを、言葉にすることなのだ。

書くことは、絶えず言葉にできないものと、言葉の境界線で行われる。

もし、言葉にできないものがなかったら……と考える。
「まだ、言葉になっていないもの」がない。ということは、全ては書き尽くされ、言い尽くされてしまったということだろうか。

言葉にできないものがない。としたら、もやもやすることもできないのではないか。たぶん「もやもやしている」という感覚を掴み取ることもできなくなるだろうと思う。

わたしは、言葉にできないものがあるから、書いたり、話したりするのだと思う。すべての物事が言葉にできてしまったら、どうする? それでも、わたしは話したり、書いたりするだろうか。なんだか別の宇宙の出来事を想像するみたいで、不思議な感覚になる。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!