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風が吹く

三猿ベイベー:Day 23

風が吹いていた。風は、書くものにとっていつも味方である。とりあえず「風が吹いていた」と言っておけばいい。なぜなら風は理由も無く吹くから。だから、何も書くことがなくても「風が吹いていた」と書けばいい。それが小説をまともに描いたことがない筆者が身につけた場を持たせるコツである。

風が吹くということは、おそらく空気があるということだ。そして、風が吹くということは地球が回っているということだ。風が吹くということは、誰かが息をしたということだと私は勝手に思っている。風が吹くのには理由がない。理由がない。理由がない。

論理学の授業で先生が「ならば」の話をしていた気がする。論理学では「ならば」の前提が偽であれば、その結果はなんであろうと文章全体は「真」になるのだった。例えば、雨が降っていない時に、「雨が降っているならば、アイスクリームを食べよう」という文章は「真」になる。それを悪用すれば、「雨が降っているならば、世界を征服しよう」とか、「雨が降っているならば、禿げよう」とかも「真」になる。

まあ、私の論理学の授業の記憶が曖昧なので、この解説も正しいかどうかはわからない。とはいえ、「正しくない」場合、その後に「ならば」で繋がれる文章は「真」である。ならば、これから曖昧な記憶を頼りに書かれる記述も多分正しい。正しいことを基準に何かを論じるならば、その後に「真」が「偽」を議論することができる。ファンタジー小説では何が起こっても許容されてしまうように、曖昧な世界では明確に「真か偽か」を議論できない。

話を戻そう。

風が吹いている。

理由がない。けれど風が吹いている。理由がないのにもかかわらず風が吹くということは、その後に起こることには特に理由がないのだろうと思われる。

だから、ここにあなたがいることも、ここに私がいることにも、理由がない。

ここに書かれているものも、おそらく理由がない。文脈という流れによって理由づけられた言葉ではない。

津込舞は泣いていた。

風が吹くのとおなじ理由で泣いていた。

なける場所を探して泣こうと思っていたのだが、見つからなかった。だから歩きながら泣くことにした。人混みに紛れて、しゃくりあげていると情けない気持ちが紛れるような気がした。やがて誰も呼び止めないこと、誰も否定しないこと、誰も慰めてくれないことに気づくと、声が漏れ出ることに任せて、涙が出ることに任せて泣くことにした。

いつの間にか、裏路地を歩いていた。寂しい場所を探していた。自分の寂しさに合う場所を探したらそこだった。スマホが鳴る。舞は画面を見ずにポケットに入れたまま電源を切る。わずかに振動してスマホはただの板になる。


高い場所。

電波とオンラインから遮断された舞を、ここからなら見下ろすことができた。

「泣いてやがる。」

石田はつぶやく。人々を上から見下ろす。ビルを見下ろす。道路が引かれている。家々の屋根。ビルの平たい屋根。遠くに見える赤い電波塔。夕方に傾きかけているオレンジ色の空。車の列。蟻のように蠢いている。

これは普通の視覚。

石田の目には、それらは全て赤い熱源に見えた。命あるものは鼓動する赤い光を放つ。また別のものはつめたい人工の熱を発している。太陽の光に照らされた部分は鮮やかに、影になる部分は黒くひそやかに。見えた。

野暮な説明を書く代わりに、石田の生活を少し描くことにする。

彼はサングラスをかけ始めてこのかた、ニュースも新聞も見なくなった。世の中のことを見る目が、文字通り変わってしまった。言葉や電波。人が話すこと。この社会がこうであると、もっともらしく説明しようとすること。それらが一度、見ることができないものになってしまった。

遮断された情報と同時に、新しく見ることができるようになったものがある。

人は視覚から情報を七割から八割得ているという。視覚が変わるということはすなわち、世界の大半が変わるということである。

「情報社会」と言われる社会の中で、「情報」を得ることを彼は諦めた。その代わりに、高いところに行くことにした。

そこでは全てが見下ろせる。山も、空も、海も。ビルも。車も。人も。飛行機も。考えてみれば、その程度の羅列で記述できるものぐらいだった。情報が溢れると言われるこの社会で、彼が情報を失って見ることができるのはそれぐらいのものだけだった。しかし、高いところから見る赤い光の様子を見れば、この社会がどのように動いているのかを、大体は察知することができた。

今は、人々が息を潜めたように何かを体に押し込んでいる。押し込まれたものはさまざまなものに変化する。怒り。憎しみ。自己嫌悪。あるいは、空想や無償の愛として昇華するものもある。どちらにせよ、押し込まれたもの特有のねじれた形をしていた。捻れた形はやがて人間の体に収まらずにはみ出る。心を折りたたむことができずに、はみ出る。いや、もう小さな小さな心は折り畳めるほど十分な大きさを保っていないのかもしれない。丸められたティッシュのように。ただぐしゃぐしゃになって、訳もわからない「自分」のどこかに投げ捨てられて放って置かれているのかもしれない。

ここからは、千粒の涙が見える。三千の怒号が聞こえる。五百の慈しみが見える。一千万の、沈黙が見える。それを見れば、「情報」などなくてもこの世の中のことはわかった気持ちになるものだった。

その目を持っていたから、石田はスマホの電源を切った舞を「見つける」ことができた。彼女は泣いていた。

石田は考える。

見下ろしてもなお考える。考えることは残っているか。

石田は考える。

一千万の命を見下ろしてもなお考えようとする。太陽が傾き、強烈なコントラストとなって街が浮かび上がる。恐ろしいほど、この目は見えすぎる。しかし、見えすぎてもなお、考えることを探している。

『何やねんこれ!』

いつも事務所に響いていた言葉がなぜか、頭の中に思い浮かんだ。突っ込む言葉。ただ、突っ込む言葉。目の前の対象に躊躇することなく、投げつける言葉。

『何やねんこれ!』

『いっぺんツッコミに来たんや。世界を変えるなんてアホなこと言うやつを』

ひたすら、頭の中で反芻する。

『何やねんこれ!』

『アホか!』

『あかんやん!』

『なんなんこれえええええ!』

『おかしなっとる!』

何やねん。

何やねん。

何やねん。何やねん。

なんや……ねん

なんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねんなんやねん

『なんやねんこれええええええ!』

(続く)

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!