考えたことを書き表す言葉がない時はどうするか? どうしたらいいのか?

さっきは、考えたことを言葉がはみ出してしまった場合のことを考えていた。例えば、考えてもいないのにそれっぽい言葉を書いてしまったり、自分でも意味のわからない言葉を使ってしまったりしてしまう時だ。

心地いいのは、自分が書く言葉と、自分の考えていることがぴったり一致するときだ。どうして自分がそう書いたのか、自分の文章のどこを聞かれてもわかる。いや、「わかる」必要はない。「わからない」なら「わからない」と書いてもいい。大事なのは、自分の文章についての疑問を自分のこととして考えることができればいい。

「言葉」について考えていたとする。自分は言葉の専門家でもないし、今までちゃんと考えたことがない。でも、とりあえず考えたい。そうしたら自分の持っている言葉で、思ったことをいちいち書いていくしかない。よくわからないのに、言語学の言葉を使ったり、言葉について考えている誰かの言葉を借りても自分の頭で考えた気がしない。だから、そうした借り物の言葉について「どうしてそう書いたの?」と聞かれても、いまいちはっきりした答えを出すことができない。

反対に、自分の言葉で書いたつもりなら(あくまでつもりでいい)、わからなかったとしても自信を持って「わかりません」と言える。そして、どうしてわからないのかもちゃんとわかっていると思う。訳もなくわからなくなることは当然よくあるのだけれども、そういうときもやっぱり「わけもないけれど、わかりません」と多分言える。

なんの話だっけ? つまりは、言葉と自分の考えたことの関係について考えたいのだった。さっきは、言葉が自分の考えをはみ出してしまったときについて考えていた。けれども、今回は自分の考えが言葉をはみ出している逆のパターンについて考えたいと思った。

結局は自分の考えと言葉のバランスが取れている状態がいいのだけれども、それはなかなか難しい。そもそも、言葉を使うということ自体が自然なこととは思わない。考えたことをうまく言葉にできないことは、よくある。自分はそれを頑張って表現しようとして、大袈裟な言葉を使ってしまうタイプだ。いわゆる「口が達者」とか「余計なことを言う」タイプと言える。一方で、うまく言葉にできないまま、何も言わないこともある。そっちの方が自然に考える人もいるだろう。

今までは「書いたから考えている」と思っていた。「書くこと」があって、初めて「考えていたこと」が見える。だから、考えることがよくわからないうちはとにかく書いていた。しかし、だんだん「考えること」や「書くこと」がわかってくると、必ずしも書きたいことを書きたいように書いているとは思えなくなった。書くことの前にある「考えること」にも意識が向くようになった。

考えることは、書くから生まれるわけではない。書く前から考えている。書くことを基準にするのではなく、考えることを基準にすると「考えているのに書けない」ということもあり得る。

例えば、「こんな小説が書きたい」と思っているのに、うまく書けない、という状態。

物語が思い付いたり、キャラクターの設定、書きたいシーンは思い浮かぶのだが、いざ書こうとすると、うまく書けない。そもそも、小説を書くってどういうことかわからない。そういう状況に陥ったことがある。

もし、「書いたから考えている」という考え方をすると、イメージをもとに何かを書くことは不可能だということになってしまう。だから、ここで「小説を書くためにはどうすればいいのだろう」と方法を探すためには、どうしても書く前にある「考えること」と向き合う必要がある。そうしないと、小説を書ける人は初めから小説を書ける人であって、書けない人はずっと書けないままだという結論になってしまうだろう。

自分のやり方をちょっと振り返ってみる。2月の間、毎日小説を書き継いで、一応完成させるというところまで書き切ることができた。拙いと思うし、小説としての完成度はどうかとおもう。しかし、自分の中での小説の書き方をつかむことができた。今度はその書き方で、新しい小説を書こうとしている。

自分の場合は、小説の文章というのがわからなくて戸惑った。いつもはエッセイや随筆を書いてると思っていた。書き方を変えても、これは小説だろうか? と自分で戸惑ってしまったのだ。

その戸惑いを文章に書き表すことができないのは、さらにストレスだった。随筆やエッセイなら、自分の気持ちをそのまま書くことが許されている気がする。しかし、小説で登場人物でもない自分が「小説の書き方がわからない」と書くのは許されていない気がした。

頑張って、わからないなりに書こうとしたけれども、そのストレスはやはり書くことでしか解消されないと思った。そこで、小説の中に「筆者自身の気持ち」や「書くことの難しさ」をそのまま盛り込むことに決めた。ジャンルで言うと「メタ小説」を書くことにした。小説の中の登場人物が、「この小説、わけわからない」と言ったり、小説の中の文章でこの小説を書いているときの気持ちを説明したりする小説だ。

これは、今まで気ままに書いてきた自分にはあっている書き方だった。この書き方なら、毎日続けられると思ったし、一定の量の文章を書くことができると思った。

物語自体も随筆のようにまとまりがなく、オチもなかった。けれども自分の中で小説のようなものが出来上がってくるようすを観察することができて楽しかった。

自分の書きたいイメージ通りになることはほとんどなかった。元からキャラクターの設定や舞台を考えていた小説だったが、書く段階になると全く違った流れになった。キャラクターの知らない面も書く羽目になった。自分の書きたいままに書いたのも違う。小説らしい文章に自分の考えを当てはめたのも違う。考えたことと、書くこと、考えたいことと、書けることの妥協が起こった。書きたいようには書くことができなかったけれども、書くことができるものの中から、自分のイメージを描くことができた。その、思ったものと違ったものができるのに、それでも「書いている」という感覚が味わえたことが面白かった。


学校の先生が教室で、作文を教えるとき「思ったことをそのまま書きなさい」と言うことがある。実際、言われた記憶がある。しかし、それはできないことだと思う。「思ったこと」が文章の形でない限り、そのまま書くことはできない。私たちは何かを考えているとき、文章を頭に思い浮かべているわけではないからだ。

一見、人間が紙に文章を書く様子は頭の中にあるものを紙に記録しているふうに見える。だから、「そのまま書く」と言う言葉が出てくるのかもしれない。けれど、実際は紙の上で、「書けること」と「考えたこと」のやりとりが起こっている。

そのまま書くことができないから、考えていることを言葉に変換しながら書くしかない。その際には、自分の書けること、知っている言葉をよく理解していないと思い通りにならない。

もし、自分が先生としてアドバイスするならば「書いてしまったことも、自分の考えたことのように受け止めてあげなさい」と言うかもしれない。

自分が何を書くことができるのか、どんな言葉が使えるのか、よく知らないで、「書きたいこと」のイメージが強すぎると自分の書いたものに対して、「こうじゃない」と不満を持ち続けることになる。書くことは、思いをそのまま書くことではないと考える。書くことは、書けることと考えたことのすり合わせの結果なのだ。だから、初めに自分の思い描いたものが紙の上に現れなかったとしても仕方がないと思う。そうすると、そうやって現れてしまったものに対して不満を抱く必要はない。

書いたものがそのまま自分だと思ってしまうと、書いたものに納得できないだろう。書くことは、言葉や紙と自分の考えの共同作業と考えれば、必ずしも自分だけの力で行うことではないと言える。最初からその気持ちで望めば、思っていないものが書けたとしても、それを楽しむ余裕ができる。

思ったことをそのまま書く、という考え方では、言葉と自分が近すぎるのだ。むしろ、書くことは自分で思っている自分から、書かれた自分を手放すことだ。紙の上で、普段の自分とは全く違う自分を作ることだ。

とりあえず、タイトルの問に答えてみる。

「考えたことを書き表す言葉がない時はどうするか? どうしたらいいのか?」

考えたことを書き表す言葉がないとき、とはどういう状況か。「書きたいこと」が「書けること」を追い越してしまっている状況のことだと言える。

そうしたときは、単純に辞書などで、考えたことを表す言葉を探してもいい。けれども、書くことは頭の中だけですることではないから、「考えたこと」も「書けること」に合わせて変えていくことが大事だ。とりあえず書いてみて、それに納得できるかどうか確かめながら言葉と考えていることのバランスを取るのがいいだろう。

そうやって考えていると、「考えたこと」と「書くこと」を分ける考え方もどうかと思う。元々、その二つは言葉を生み出す時には混ざり合って、どちらがどっちだかわからない状態になっている。

だから、「考えていることを書きたい」と思うことがふさわしいのかどうかも疑問である。よっぽど書くことに慣れていないと、その願いをかなえることはできなさそうである。

とはいえ、「こんなことが書きたい」と思うことは仕方ないことであるから、実際に書けることと妥協しながら、そしてその妥協も楽しみながら、書き進めていくのがいいだろう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!