書く練習とはどのようなことを言うのだろう?

書くことは、知識をためこむことや何かを理解することとはちがう。知識がなくても書くことはできる。そもそも、自分の知っていることしか書けない。だから、自分の書ける範囲のことを書くしかない。わかっていなかったとしても、「よくわからないのだが……」とことわって書けば、憶測でもフィクションでも書くことができる。

いっぽうで、どれだけわかっていても言葉にできないという状況がありうる。食べ物の味を、舌で感じている通りに書くことはできない。自分の感覚として味は確かに感じているはずなのに、言葉にすると難しい。甘い、とか酸っぱいとか味の要素をそれぞれ書き出すことはできる。とはいえ、それで元の味が再現されるわけではない。言葉を読むことは味わうこととかけ離れすぎている。

いちおう、書くことが上手くなりたいから、毎日書いている。今のところ、書くことは体で覚えることだと思っている。ダンスのように、踊る感覚を忘れないように毎日書いている。

頭の中でどれだけ想像しても、実際に書くときにはその想像が崩れてしまう。手を動かして考えないとダメなようである。


書くことに慣れることは良いことだろうか?

なんだか、慣れすぎるのも良くない気がする。例えば、紙の上でも普段の自分と変わらずに言葉をいうことができたらどうするだろう。

……でも、よく考えれば自分は書いた言葉の方が話すよりもよく話せる感覚がある。……でも、書いたことをそのまま目の前にいる人に渡して「私と話す代わりにこれを読んでほしい」という風にするわけにはいかない。むしろ、書いたものを知っている人に読まれるのは恥ずかしい。知っている人とは、「書く自分」とは別の自分で対応しているから、いきなり「書く自分」を見せたら、びっくりされそうで不安だ。

それでも、「書くことに慣れる」という状況はある。これは、話し言葉に比べて、慣れているというわけではなくて、書き言葉の中で、慣れた書き言葉と、慣れない書き言葉があるということを言っている。

原稿用紙一枚で読書感想文を書いていた小学生が、大学生になると4000字のレポートを書くようになる。それは、一つの書くことへの慣れといえる。

それにしても、やはり話し言葉と比べると、4000字もの内容をひとの口から聞くことは少ない。選挙の演説でもそんなにあるとは思えない。自分の体験から探すと、おばあちゃんが寝る前に聞かせてくれた身の上話ぐらいじゃないだろうか。普段の生活で話している言葉の文字数を数えると、書き言葉とは比べものにならないほど少ない。

それに、社会に出て大学のレポートの量ほどの書き言葉に触れる機会も少ない。小説ならともかく、人とのやりとりで4000字分の言葉を送ることはほとんどない。

書くことに慣れすぎると、普段のメールやメッセージのやりとりで4000字送ってしまったりするかもしれない。それはそれで驚かれる。よくわからないものを手渡された方は、迷惑かもしれない。


余計なことが気になりすぎて、なかなか本題に入れない。私が書きたかった「書くことに慣れる」ということは、書いているひとの気持ちの問題のことだ。寄り道してわかったことだが、これは「話し言葉に比べて書くことに慣れている」ことや、「文字数的に書ける量が増えた」ということとは違うことを言いたい。

4000字書くことができる大学生だって、本当は「嫌だ嫌だ」と言いながらレポートを書いている時もある。一方で、書くことが好きな小学生なら読書感想文を楽しく書くかもしれない。

書くことは、学校で練習させられる。しかし、そこで学ぶ「書く」から外れて、自分のために「書く」ことは自分で練習するしかない。

誰にも言われずに、小説を書き始めたり、なんとなく日記を書き始めたり。私が書くことを勝手に始めた時、部屋で一人、新しいノートに書き始めるときの心もとない感覚をよく覚えている。誰に言われたわけでもないのに、どうして自分はそんなことをしているんだろう、と恥ずかしい気持ちになった。同時に、自分で書くことを決める楽しさや達成感は、学校の作文よりも強く感じられた。

そんな初々しい感情をもう一度味わいたい気分に、なる。今では、当たり前のように毎日書くことが習慣になった。初めは好きで、書くたびにワクワクしていたのだが、今は慣れてしまって面倒くさい気持ちが強い。書かないといけないのだから、と別の理由で自分を書くことに持っていく。

さらにタチが悪いのは、書くことに慣れると、そうした義務感だけでも書けてしまうことだと思う。ワクワクすることを探そうなどと考えずに、ただ書けてしまう。夢中になる心地よさはあるが、それでいいのだろうかと方向感覚を見失う。

白い紙を見るたびに、noteの白いエディター画面を見るたびに、自分が今まで何を書いてきたのかとか、何を書きたかったのかを全て、忘れたい。忘れてもいいと思っている。

キーボードを打って、文字が現れるたびにその面白さにワクワクしたい。

当たり前のように、地面を踏みたくない。やっぱり、自分では予想できないものを書きたい。自分の思いを紙に押し付けたくない。書けば書くほど、言葉や書く道具、色々なものとのやりとりによって、文章が生まれていることに気がつく。自分はそのうちの一人の参加者でいいと思っている。

色々なものが組み合わさって一つの文章を作る。そう思うと、一つ一つの文章は、その場でしか生み出せない、生のものだ。自分にしか書けないもの、というよりも、この瞬間にしか書けないものを書きたい。今日のこの天気や、考えていたこと、使っていた道具や、書いた場所、周りの人との関係。それらが今日の自分の文章を作っていると思いたい。そのかけがえのなさを私は書きたいのだと思う。

だから、私が書くことを当然のこと、あるいは今日と同じように明日も書けるものと思ってしまうと、私自身が文章の意味を見失ってしまう。


そんな風に書いているから、脱線もとっておくし、できるだけ添削もしないで書き上がったそのままを投稿することにしている。この書き方をするなら、どうしてもその場その場の考えに集中するしかない。自分で「これがいい文章だ」というイメージを持つことも邪魔になる時がある。中途半端で終わってもいいし、書きたくなくなったら終わりにすればいい。

まとめなくてもいいのだけれども、「文章の練習とは?」とタイトルに書いていたことを思い出した。

とりあえずは、書き始めなければ練習にならない。しかし、書くことだけが練習だと言い切ることにも抵抗がある。自分の書くことの周りで何が起こっているのか、よく感じていなければいけない。それも、感じることに慣れるのではなくて、書くたびにそこから新しいものを見つけられるようにしたい。今日考えて、私にとっての練習は、そうやって書くことを目指すことだと思った。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!