「弱い」とはなにか?

せっかく書きながら考えるのだから、自分が興味のあるテーマを選んで、それについて書いてみようと思う。これはあくまでも、この場で考えついたことで、わたしは次に書くときは、全く別のことを書くかもしれない。また、書いている途中ではじめに書いていたことがわからなくなるかもしれない。

とりあえず、書きながら考えてみることにする。

「弱い」とはなにか?

わたしがこれをテーマにしようと思った理由は、弱さというものはふつういけないものとして考えられている一方で、肯定的にとらえることができる人もいるということが面白いと思ったからだ。

その二面性が面白い。誰かに「弱い」といったら、その人は嫌な気分になるだろう。これは、普通のことである。嫌な気分になることをわかっていて、「弱い」と相手を蔑むこともある。

しかし、「弱い」ことに対する肯定的な見方もある。弱いからこそ他人の弱さを受け止められる、という風にだ。そこでは、弱さは自分に優しさや思いやりをもたらすいいものとして捉えられている。

弱いことは、悪いことなのだろうか?

こう問いかけると、「弱くてもいいんじゃないか」ということを言いたいように聞こえてしまうかもしれない。しかし、単純に「弱いことは、悪いことなのだろうか」と考えてみたい。弱さには、二面性があるということを踏まえたからこそ、この問いを考えることができそうである。


ふつう、弱いことは悪いことである。なぜかというと、誰かに「弱い」というとその人は気分を害するからだ。そして、わたしもそれをわかっていて「弱い」という言葉をあまり人に言わないようにしている。

弱いとは、どんな風に悪いのか?

弱いことが、悪いことであるならば、それはどんな風に悪いのだろうか?

単純に、強い、弱いがわかりやすい例から考えてみる。

例えば、ゲームが弱いといった場合だ。勝ち負けのあるゲームでは、強さと弱さの違いがわかりやすい。強い人が勝ち、弱い人が負ける。あるいは、勝った人が強いとされ、負けた人が弱いとされる。

ゲームをやっていて、「あなたは弱い」と言われたらどういう意味に受け取るだろうか?

わたしは、「あなたとゲームするのが楽しくない」とか「どうだ、俺の方が強いだろう」という意味に受け取る。この場合、単純に「あなたは弱い」という言葉の意味のそのままを受け取ることはない。

「弱い」という言葉には、遠回しに「悪いこと」を伝える働きがあるようである。直接、「ゲームをするのが楽しくない」というのではなく、「あなたは弱い」と言う。

どうして、「弱い」という言葉はそのように働くのか? 

それは、二人でゲームをしているからである。ゲームの中では単純に「弱い」だけだが、遠回しに伝わってくる意味にはゲームだけでは終わらない何かを踏まえている。

ゲームをやっていて「弱い」と言われてしまったら、「もしかしたら、わたしとゲームしていてもつまらないのかな?」とか、ゲームの意味以上のことを考えてしまう。ゲームの中では、勝ち負けが起こっただけである。しかし、それをあえて「弱い」と口に出されると、勝ち負けを通じて何か否定的な意味を伝えられたのかと考えてしまう。

その否定的な意味が生まれる仕組みには、「弱い人とゲームをしてもつまらない」などの、言葉に出されない考え方がある。

もし、自分が「別に弱くてもゲームしたっていいじゃないか」と思っているならば、あえて「弱い」と言ってくる人とは一緒にゲームをしない方がいいということになりそうである。一方で、ゲームの仕様で、そのように考え方の違う人たちが一緒に遊んでいても楽しいものもあるが。


「弱い」という言葉の意味をよく考えると、単純に「ゲームが弱い」以上のものが含まれているとわかった。

「弱い」という言葉は、二通りの方法で相手を否定してしまうことがありうる。

まず、一つは「弱い」という言葉が持つ遠回しな意味で相手を否定する。

その遠回しの意味が伝わらない場合も、「自分とは同じ価値観を共有できない人」、さらにはその価値観を押し付ける「このままではいけない」という否定になっていることがある。遠回しに何かを意味するということは、言葉にされない価値観や前提があるということだからである。そうしたものを共有できた方がいいと考えて、「弱い」とあえていうこともあるのではないだろうか。

これが、「弱いとはどんな風に悪いのか」の問いに対する大体の答えだと思う。


そして、「弱い」には遠回しの意味が含まれているということから、「弱い」ことを肯定的に捉えるやり方も考え出すことができる。

肯定的に「あなたは弱い」と言われることはほとんどない。

しかし、自分から「僕は弱いけど……」という場合がある。その場合、その人はどんな考えで、あえて「弱い」という言葉を使っているのか。

「弱い」という言葉を、否定的に捉えるにしろ、肯定的に捉えるにしろ、文脈から意味を汲み取っていることには違いがない。「弱い」性質そのものが、ただ単に言われていることは珍しい。

つまりは文脈によるのだが、先にあげた例をもとに考えてみる。

「弱い」の肯定的な使い方の例として、「弱いからこそ、人の痛みがわかる」といったものがある。弱くなくても、人の痛みがわかるかもしれないので「弱いからこそ」というのは言い過ぎかもしれない。「弱いから、人の痛みがわかった」ぐらいがいいだろう。それは、どんな風に肯定的な意味が生まれているのだろうか。

やはり、「人の痛みがわかる」と言うことに暗黙のうちに肯定的な意味がまとわりついているからだろう。「人の痛みがわかることはいいことだ」という前提がある。弱さが、その「いいこと」を引き出していると言う点で、「弱い」と言う言葉が肯定的に使われている。これは、「弱い」という言葉が「悪いこと」を意味するのと同じ仕組みである。


それにしても、「言葉」基準で考えると、言葉は意味の受け取りがいろいろあることに気付かされる。

ここまで書いてきてわかったことは、わたしはそのような意味の受け取り方の違いを知りたいのではなく、なぜ、「弱い」ことから「人の痛みがわかる」ということが引き出されるのかを知りたいのだと気がついた。

それは、弱さの周りにある意味について述べるよりも、「弱い」性質とはどういうものかを考えた方が良さそうである。

ある言葉の周りには、遠回しな意味がまとわりつくことはよくありそうである。以上のような議論を「おいしい」という言葉で考えても成立しそうである。「おいしい」ことは普通は、肯定的だが、皮肉に使われることもある。そうやって、「おいしい」にまつわる暗黙の価値観を考えていけばいい。

それは、「おいしい」とか「弱い」という具体的な言葉というよりも、言葉そのものが持つ意味を引き出す仕組みについての考えであるといえる。

今日は、なんとなく考え始めてそのような道を辿った。

しかし、そのような道があるとわかったので今度はちゃんと「弱い」ということについて、「弱い」ことそのものを考えてみたいと思う。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!