テーマは決めないといけないのだろうか?

最近になって、書きながら考えることはどういうことなのだろうと考え始めた。その書き方を意識して練習している。なるべく難しい言葉を使わずに考える。

書くことはゆっくり考えることだと言える。書かずに考え事をすると、いろいろなものが頭をよぎる。気がついたらはじめに考えようとしたことと別のことを考えている。その勢いで書こうとすると、指が追いつかない。指を痛めて書いていた頃もあった。心で起こっているそのままを書こうとすると、考えている暇はない。それはそれで、面白い文章ができる。今は、指の動きも言葉を思いつくスピードも、頭で考えていることも、ゆっくりになっている。

今日のテーマを「考えるスピードについて」にしようと思っていたが、それを書こうとすると、書く前に考えていたことが溢れ出してしまう気がした。散歩しているときに、「考えるスピードについて」考えていた。だから、それについては言いたいことがたくさんある。しかし、それについて書こうとすると、先ほどに言った「指が追いつかない」状態になることが予想できる。

考えたことを忘れないように、急いで書く。そうやって書いている間は、いつも書くことをもどかしく感じる。頭で考えたことを読み取ってくれる機械があればいいのに、と思う。

ゆっくり書きたいから、書く瞬間に、疑問に思ったことを今日のテーマにした。「テーマは決めないといけないのだろうか?」

別に、決める必要はないと思う。たくさんの文章をテーマを決めずに書いてきた。テーマが邪魔だと考えたこともある。だから、タイトルは今日の日付だけで書く。「何について書いたか」ではなく、今まさに書いていることを見てほしいと思ってそうしたのだった。

……ということで、テーマは決めなくてもいい。


結論が出てしまった。


文章を書くことにおいて、結論が出てしまうということほどつまらないものはない。これ以上書くことができなくなってしまうからだ。まあ、でも時間がない人は結論を知ったら用はないと思うので、ここら辺で読むのをやめてもよい。

テーマと結論には、深い関係があるのかもしれない。と、ここまで書いて思う。

今日書くつもりだった、「考えるスピードについて」を例にとろう。

このテーマを書こうと思ったきっかけは、最近、「考えること」について興味があったからだ。特に、私は文章を書いているときが考えているときだと思っている。冒頭に書いたように、書いていることと、考えることのスピード感について散歩中にも考えていた。

そして、その散歩中に結論、というか自分の「書くこと」を肯定するような理論までも思いついていたのだ。

「書くこと」は、遅いとか、頭で考えたほうが早いという議論がある。議論があると言っても、これは私が私の意見の説得力を高めるために考えた議論であるが。

そして、世間では効率が重視されたり、頭の回転が速いことが賞賛されたりする。……といってもこれは私が私の意見の説得力を高めるために持ち出す「世界観」なのだが。

そして、「書くこと」は遅くて、面倒と見られがちだ。しかし、実際に書いていると思っても見ない不思議な力がある。だから、みんな書くべきだ。

というような、結論までの文章を書こうと思っていた。

そこまで考えが進むと自然とタイトルも思い浮かぶ。「考えるスピードについて」とか。

これは、人を惹きつけるのにはいいタイトルかもしれない。「考える」ことに興味がある人は「書くこと」に興味がある人より多いと思う。「書いている人」より「考えている人」の方が数は多いだろうから。そもそも、考えない人はいない。そうした普遍的な「考える」に、「スピード」という現代社会を象徴するような言葉をつければ、なんだか魅力的なタイトルに思える。その上、私が好きで得意に思っている「書くこと」に結びつければ、多くの人に読んでもらえるだろう。

という皮算用だった。

ここまで書いてきて、自分は意外とウケを狙ってタイトルを決めているのだな……とわかる。自分で好きで書いていると思ってたのに、人の目を気にして書いている。

その矛盾が気持ち悪かったのか、書く直前までタイトルに悩んでいた。もし、頭の中で固まっている「考えるスピードについて」を書くとしたら、退屈だと思っていた。頭にあることをそのまま書くだけだから。

ウケか、退屈か。

それで悩んだ結果、私はウケを捨てて「テーマは決めないといけないのだろうか?」を書くことにした。

ここまで書いてきて、わかったように、やはりテーマを固めすぎてもあまり自分にとっていいものだとは思わない。その場で決めた今回の方がよほどワクワクする。

その場で決まったテーマをそのまま書くことに、抵抗がある人もいるかもしれない。書くためにはネタが必要だとか、知識を整理して書いた方がいいとか思うのは自然なことだ。

書くことはあたかも、書いた人が元々持っている「ネタ」や「知識」を披露しているかのように見えるからだ。私が散歩中に作り上げた題材について、それを披露する形で記事を作り上げようとした例からも思える。

しかし、その考え方をすると「持っているもの」がないと書くことができない、ということになる。そして、さらに、それがある人だけが書くに値する人だと考えを進めてしまうかもしれない。

けれど、そんなことはない。と、私は言いたい。

これは、何度も別のやり方で書いてきたことだが、「ネタ」や「知識」がなくても文章を作ることができる。

ちょっと振り返ってみてほしい。この文章に、私が「知識」を披露している部分があるだろうか。例えば、固有名詞を出して誰々がこう言っていたから、こうした方がいいみたいな、部分である。私の記憶がいい加減でなければ、そんな部分はない。(しかし、私は今まで書いてきた内容をよく覚えていない。)

記憶に頼らずとも、ないと言い切れる。なぜなら、私はそういう書き方をしないからである。(自分はそういう書き方をしていないとわかっているから、いい加減な記憶力でも断言できる)

「そういう書き方」ではないとはどういう事か? それは、元々あるものを使わないという書き方である。つまり、元々仕込んでおいたネタを使わない。元々知っていたことを書かない。元々、書いていたことを引用しない。

それではどうやって、書くのか。何もないのに書けないじゃないかと、反論があるかもしれない。

しかし、「今まさに起こっていること」を使えば、「ネタ」や「知識」を必要とすることなく、書くことができる。

どういうことか?

例えば、あなたがキーボードの前に座ったとする。机や、文章を書くための画面が見える。手元にはコップが置いてある……など。そして、それだけではなく、「何を書こうかな?」と考えたり「さっきの散歩は気持ちよかったな」と思ったりする。

それら全てが、「今まさに起こっていること」である。それを一つ一つ丁寧に書いていけばいい。

『私は、キーボードの前に座った。目の前には電源がついたパソコン。ディスプレイはnoteのエディター画面が映っている。それをみて、私は「何を書こうかな?」と考え始める……』

といった感じだ。それを書いていれば、ネタや知識などなくても文章を書くことができる。

要するに、「思いつき」である。この文章が書かれた理由はそんなものだ。

書きながら考える、ということは、頭で考えが進んでいる様子を、机の上のマグカップ記述するように、書くことだ。すなわち、「自分はつまらないことを考えているな」と思ったら、そのまま「自分はつまらないことを考えている」と書くようなものである。

文章は本当につまらないものになるかもしれない。考えていることだから、脈絡もなく、話がまとまらないかもしれない。うまく文章が終わる保証はない。

しかし、とりあえず目の前の文章を書くことはできる。なぜなら、「自分はつまらないことを考えている」ということを考えたことは紛れもない「今まさに起こっていること」なのだから。

それに、「自分はつまらないことを考えている」と書いたからといって、文章がつまらないものになるとは限らない。むしろ、くだらないものを読みたい人は喜ぶかもしれない。「つまらないこと」が、いつの間にか物語になったりするかもしれない。

究極的には、文章が面白くなるまで書き続ければいい。「自分はつまらないことを考えている」と思ったら、徹底的にどんなふうにつまらないのか、どうしてつまらないことを考えていると思ったのだろうか、とか徹底的に書くことはある。


初めは、「今まさに起こっていること」を書くのには練習がいるかもしれない。でも、私の感覚では、それは楽しい練習であって、辛いことではない。むしろ、その場で自分でも思ってなかった言葉が生まれてくるのが楽しい。

淡々と自分の思いついたことを、ただ書いていると、言葉そのもののリズムや、書いている道具、開いているnoteのエディターの白さなどが生き生きと感じ取れる。「思いついたこと」といっても、自分の頭の中のことをそのまま書くことではない。やはり、言葉という形で、道具を通して、画面上に表示しなければならない。その動作のどの瞬間にも、「書くべきこと」が生まれる機会がある。

例えば、「言葉が自分の体で生まれる瞬間」には何が起こっているのだろうか。それは今まさに起こっていることには違いないが、書こうとすれば一つの記事では足りないだろう。その瞬間を何度でも見つめて、何度でも新しい記事を書くことができる。

無理に結論を作るようであるが、そのように書くためには目の前のことを飽きずに、ゆっくり味わうことが大事だ。冒頭に、「書くことはゆっくり考えることである」と書いたのは、そういうことである。それは、頭の回転の速さで問題を次々と解決していくことではない。すでに、知っていることを理路整然と述べることでもない。

愚直に、今起こっていることを淡々と、今思いついた言葉を淡々と書き連ねておけばいい。

その際には、むしろ「すでに知っていること」や「誰かが言った言葉」は邪魔になる。今自分の目の前に起こっていることを体験しているのは、自分しかいない。自分の感じたこと、自分しか知らないことなのだから自分の言葉で語るしかない。

「言葉」は本来、他人から学ぶもので「自分の言葉」など、幻想だという考え方もある。もっともである。

けれども、私があえて「自分の言葉」というとしたら、やはり、その人が今まさに体験していることを語る言葉こそ、それにふさわしいと思う。

どこまでも「今まさに起こっていること」を書くことができたなら、その文章はその人にしか書けないものになるだろう。そして、それと同時に他の人が読むに値する、かけがえのないものになるだろう。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!